嬉しいのです。こんな事があろうと思って、もう家を出ます時、なくなった母親の記念《かたみ》の裾模様を着て参りました。……手織木綿に前垂《まえだれ》した、それならば身分相応ですから、人様の前に出られます。時おくれの古い紋着《もんつき》、襦袢も帯もうつりません、あられもないなりをして、恋の仇《かたき》の奥様と、並んでここへ参りました。ふびんと思って下さいまし。ああ女は浅間しい、私にはただ一枚、母親の記念《かたみ》だけれど、奥様のお姿と、こんなはかないなりをくらべて、思う方の前に出るのは死ぬよりも辛うござんす。それさえ思い切りました。男のために死ぬのです。冥加《みょうが》に余って勿体ない。……ただ心がかりなは、私と同じ孤児《みなしご》の、時ちゃん―少年の配達夫―の事ですが、あの児《こ》も先生おもいですから、こうと聞いたら喜びましょう。)
若旦那の目にも、奥様にも、輝く涙が見えました。
先生は胸に大波を打たせながら、半ば串戯《じょうだん》にするように、手を取って、泣笑《なきわらい》をして、
(これ、馬鹿な、馬鹿な、ふふふ、馬鹿を事を。)
(ええ、馬鹿な女でなくっては、こんなに旦那様の事を思い
前へ
次へ
全79ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング