が忘れられねえ!……睫毛《まつげ》にたまって、涙が一杯。……風が冷く、山はこれから、湿っぽい。
 秋の日は釣瓶《つるべ》落しだ、お前さん、もうやがて初冬《はつふゆ》とは言い条、別して山家だ。静《しずか》に大沼の真中《まんなか》へ石を投げたように、山際へ日暮の波が輪になって颯《さっ》と広がる中で、この藤助と云う奴が、何をしたと思召《おぼしめ》す。
 三尺をしめ直す、脚絆の埃《ほこり》を払《はた》いたり、荷づなを天秤《てんびん》に掛けたり、はずしたり。……三味線の糸をゆるめたり、袋に入れたり……さてまた袋を結んだり。
 そこへ……いまお道さんが下りました、草にきれぎれの石段を、攀《よ》じ攀じ、ずッと上《あが》って来た、一個《ひとり》、年紀《とし》の少《わか》い紳士《だんな》があります。
 山の陰気な影をうけて、凄《すご》いような色の白いのが、黒の中折帽を廂下《ひさしさが》りに、洋杖《ステッキ》も持たず腕を組んだ、背広でオオバアコオトというのが、色がまた妙に白茶けて、うそ寂しい。瘠《や》せて肩の立った中脊でね。これが地蔵様の前へ来て、すっくりと立ったと思うと、頭髪《かみ》の伸びた技師の先生が
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