まずいが、言う事がまずくて不可《いか》んです。間違じゃあない、故障です、素人は気なしだからして、あんな狭い天幕の中で、器械にでも障って、また故障にでもなると不可んのだ。決して心配な事ではないのです、――さあ飯だ、飯だ。)
 と今度はなぜか、箸を着けずに弁当をしまいかけて、……親方の手前もある、客に電報が来た様子では、また和女《おまえ》の手も要るだろう、余り遅くならないうちにと、懇《ねんごろ》に言うと、
(はい、はい。)
 と柔順《すなお》に返事する。片手間に、継掛けの紺足袋と、寝衣《ねまき》に重ねる浴衣のような洗濯ものを一包、弁当をぶら下げて、素足に藁草履《わらぞうり》、ここらは、山家で――悄々《しおしお》と天幕を出た姿に、もう山の影が薄暗く隈を取って映りました。
(今、何時だろう。)
 と天幕口へ出て、先生が後姿を呼びましたね。
(……四時半頃にもなりましょうか。)
(時計が止《とま》ったよ――気をつけておいで。)
 と大《おおき》な懐中時計と、旗竿の影を、すっくり立って、片頬《かたほ》夕日を浴びながら、熟《じっ》と落着いて視《なが》めていなさる。……落着いて視《み》ちゃあいなすった
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