す、天が命ずるにあらず、地が教うるにあらず、人の知れるにあらず、ただ何ものの考慮とも分らない手段である……すなわち小刀《ナイフ》をもって革鞄を切開く事なのです。……私《わたくし》は拒みません。刀ものは持合せました、と云って、鞘《さや》をパチンと抜いて渡したのを、あせって震える手に取って、慳相《けんそう》な女親が革鞄の口を切裂こうとして、屹《きっ》と猜疑《さいぎ》の瞳を技師に向くると同時に、大革鞄を、革鞄のまま提げて、そのまま下車しようとした時であった。
「いいえ!」
 と一言《ひとこと》、その窈窕たる淑女は、袖つけをひしと取って、びりびりと引切《ひっき》った。緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》が※[#「火+發」、192−6]《ぱっ》と燃える、片身を火に焼いたように衝《つッ》と汽車を出たその姿は、かえって露の滴るごとく、おめき集《つど》う群集は黒煙《くろけむり》に似たのである。
 技師は真俯向《まうつむ》けに、革鞄の紫の袖に伏した。
 乗合は喝采《かっさい》して、万歳の声が哄《どっ》と起った。
 汽車の進むがままに、私たちは窓から視《み》た。人数に抱上げらるるようになって、やや乱れた黒髪に
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