士の方々、と室内に向って、掠声《かすれごえ》して言った。……これなる窈窕たる淑女(――私もここにその人物の言った言《ことば》を、そのまま引用したのであるが)窈窕たる淑女のはれ着の袖を侵《おか》したのは偶然の麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]である。はじめは旅行案内を掴出《つかみだ》して、それを投込んで錠を下した時に、うっかり挟んだものと思われる。が、それを心着いた時は――と云って垂々《たらたら》と額に流るる汗を拭《ぬぐ》って――ただ一瞬間に千万無量、万劫《ばんごう》の煩悩を起した。いかに思い、いかに想っても、この窈窕たる淑女は、正《まさ》しく他《ひと》に嫁せらるるのである……ばかりでない、次か、あるいはその次の停車場《ステエション》にて下車なさるるとともにたちまち令夫人とならるる、その片袖である。自分は生命を掛けて恋した、生命を掛くるのみか、罪はまさに死である、死すともこの革鞄の片袖はあえて離すまいと思う。思い切って鍵を棄てました。私《わたくし》はこの窓から、遥《はるか》に北の天に、雪を銀襴のごとく刺繍《ししゅう》した、あの遠山《えんざん》の頂を望んで、ほとんど無辺際に投げた
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