いずれも玄関附だからちとたじろいだ次第なんでございますが。
 ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ山中《やまなか》で、……狼温泉――」
 「ああ、どこか、三峰山《みつみねさん》の近所ですか。」
 と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ抜参《ぬけまい》りをして、狼よりも旅費の不足で、したたか可恐《こわ》い思いをした小村さんは、聞怯《ききおじ》をして口を入れた……噛《か》むがごとく杯を銜《ふく》みながら、
「あすこじゃあ、お狗様《いぬさま》と言わないと山番に叱られますよ。」
 藤助は真顔で、微酔《ほろよい》の頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「途方もねえ、見当違い、山また山を遥《はるか》に離れた、峰々、谷々……と言えばね、山の中に島々と言う処がありまさ、おかしいね。いやもっと、深い、松本から七里も深《おく》へ入った、飛騨《ひだ》の山中――心細い処で……それでも小学校もありゃ、郵便局もありましたっけが、それなんぞも焼けていたんでございましてね。
 山坂を踏越えて、少々|平《たいら》な盆地になった、その温泉場へ入りますと、火沙汰《ひざた》はまた格別、……酷《ひど》い
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