思切って逆戻りにその饂飩屋を音訪《おとず》れたのであった。
「御免なさい。」
 と小村さんが優しい穏《おだやか》な声を掛けて、がたがたがたと入ったが、向うの対手《あいて》より土間の足許《あしもと》を俯向《うつむ》いて視《み》つつ、横にとぼとぼと歩行《ある》いた。
 灯が一つ、ぼうと赤く、宙に浮いたきりで何も分らぬ。釣《つり》ランプだが、火屋《ほや》も笠も、煤《すす》と一所に油煙で黒くなって正体が分らないのであった。
 が凝視《みつ》める瞳で、やっと少しずつ、四辺《あたり》の黒白《あいろ》が分った時、私はフト思いがけない珍らしいものを視《み》た。

       二

 框《かまち》の柱、天秤棒《てんびんぼう》を立掛けて、鍋釜《なべかま》の鋳掛《いかけ》の荷が置いてある――亭主が担ぐか、場合に依ってはこうした徒《てあい》の小宿《こやど》でもするか、鋳掛屋の居るに不思議はない。が、珍らしいと思ったのは、薄汚れた鬱金木綿《うこんもめん》の袋に包んで、その荷に一|挺《ちょう》、紛《まが》うべくもない、三味線を結《ゆわ》え添えた事である。
 話に聞いた――谷を深く、麓《ふもと》を狭く、山の奥へ入った村里を廻る遍路のような渠等《かれら》には、小唄|浄瑠璃《じょうるり》に心得のあるのが少くない。行《ゆ》く先々の庄屋のもの置《おき》、村はずれの辻堂などを仮の住居《すまい》として、昼は村の註文を集めて仕事をする、傍ら夜は村里の人々に時々の流行唄《はやりうた》、浪花節《なにわぶし》などをも唄って聞かせる。聞く方では、祝儀のかわりに、なくても我慢の出来る、片手とれた鍋の鋳掛も誂《あつら》えるといった寸法。小児《こども》に飴菓子《あめがし》を売って一手《ひとて》踊ったり、唄ったり、と同じ格で、ものは違っても家業の愛想――盛場《さかりば》の吉原にさえ、茶屋小屋のおかっぱお莨盆《たばこぼん》に飴を売って、爺《じじ》やあっち、婆《ばば》やこっち、おんじゃらこっちりこ、ぱあぱあと、鳴物入で鮹《たこ》とおかめの小人形を踊らせた、おん爺《じい》があったとか。同じ格だが、中には凄《すご》いような巧《うま》いのがあるという。
 唄いながら、草や木の種子《たね》を諸国に撒《ま》く。……怪しい鳥のようなものだと、その三味線が、ひとりで鳴くように熟《じっ》と視《み》た。
「相談は整いました。」
「それは難有《ありがた》い。」
「きあ、二階へどうぞ……何《なん》しろ汚いんでございますよ。」
 と、雨もりのような形が動くと、紺の上被《うわっぱり》を着た婦《おんな》になって、ガチリと釣ランプを捻《ひね》って離して、框《かまち》から直ぐの階子段《はしごだん》。
 小村さんが小さな声で、
「何《なん》しろこの体《てい》なんですから。」
「結構ですとも、行暮れました旅の修行者になりましょうね。」
「では、そのおつもりで――さあ、上《あが》りましょう。」
 と勢《いきおい》よく、下駄を踏違えるトタンに、
「あっ、」と言った。
 きゃんきゃんきゃん、クイ、キュウと息を引いて、きゃんきゃんきゃん、クイ、クウン、きゅうと鳴く。
 見事に小狗《こいぬ》を踏《ふみ》つけた。小村さんは狼狽《うろた》えながら、穴を覗《のぞ》くように土間を透かして、
「御免よ……御免よ……仕方がない、御免なさいよ。」
 で、遁《に》げないばかりに階子《はしご》を上《あが》ると、続いた私も、一所にぐらぐらと揺れるのに、両手を壇の端《はじ》にしっかり縋《すが》った。二階から女房が、
「お気をつけなさいましよ……お頭《つむ》をどうぞ……お危うございますよ、お頭を。」
「何《なあ》に。」
 吻《ほっ》としながら、小村さんは気競《きお》ったように、
「踏着けられた狗から見りゃ、頭を打《ぶ》つけるなんぞ何でもない。」
 日頃、沈着な、謹み深いのがこれだから、余程|周章《あわ》てたに違いない。
 きゃんきゃんきゃん、クイッ、キュウ、きゃんきゃんきゃん、と断々《きれぎれ》に、声が細って泣止《なきや》まない。
「身に沁《し》みますね、何ですか、狐が鳴いてるように聞えます。」
 木地の古びたのが黒檀《こくたん》に見える、卓子台《ちゃぶだい》にさしむかって、小村さんは襟を合せた。
 件《くだん》の油煙で真黒《まっくろ》で、ぽっと灯の赤いランプの下に畏《かしこま》って、動くたびに、ぶるぶると畳の震う処は天変に対し、謹んで、日蝕を拝むがごとく、少なからず肝を冷しながら、
「旅はこれだから可《い》いんです。何も話の種です。……話の種と言えばね、小村さん。」
 と、探らないと顔が分らぬ。
「はあ。」
「何ですか、この辺には、あわれな、寂しい、物語がありそうな処ですね。あの、月宵鄙物語《つきのよいひなものがたり》というのがあります、御存じでしょうけ
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