村さんは一旦外へ出たが、出ると、すぐ、横の崖か巌《いわ》を滴る、ひたひたと清水の音に、用心のため引返して、駅員に訊いたのであった。
「その辺に旅籠屋《はたごや》はありましょうか。」
「はあ、別に旅籠屋と言って、何ですな、これから下へ十四五町、……約|半道《はんみち》ばかり行《ゆ》きますと、湯の立つ家があるですよ。外《ほか》は大概一週間に一度ぐらいなものですでなあ。」
「あの風呂を沸かしますのが。」
「さよう。」
「難有《ありがと》う――少しどうも驚きました。とにかく、そこいらまで歩いてみましょう。」
と小村さんが暗がりの中を探りながら先へ立って、
「いきなり、風呂を沸かす宿屋が半道と来たんでは、一口飲ませる処とも聞きにくうございますよ。しかし何かしらありましょう……何《なん》しろ暗い。」
と構内の柵について……灯《ともしび》の百合《ゆり》が咲く、大《おおき》な峰、広い谷に、はらはらとある灯《ひ》をたよりに、ものの十|間《けん》とは進まないで、口を開けて足を噛《か》む狼《おおかみ》のような巌《いわ》の径《こみち》に行悩んだ。
「どうです、いっそここへ蹲《しゃが》んで、壜詰《びんづめ》の口を開けようじゃありませんか。」
「まさか。」
と小村さんは苦笑して、
「姨捨山、田毎《たごと》の月ともあろうものが、こんな路《みち》で澄ましているって法はありません。きっと方角を取違えたんでしょう。お待ちなさいまし、逆に停車場《ステエション》の裏の方へ戻ってみましょう。いくらか燈《あかり》が見えるようです。」
双方黒い外套が、こんがらかって引返すと、停車場《ステエション》には早や駅員の影も見えぬ。毛布《けっと》かぶりの痩《や》せた達磨《だるま》の目ばかりが晃々《きらきら》と光って、今度はどうやら羅漢に見える。
と停車場《ステエション》の後《うしろ》は、突然《いきなり》荒寺の裏へ入った形で、芬《ぷん》と身に沁《し》みる木《こ》の葉の匂《におい》、鳥の羽で撫《な》でられるように、さらさらと――袖が鳴った。
落葉を透かして、山懐《やまふところ》の小高い処に、まだ戸を鎖《さ》さない灯《あかり》が見えた。
小村さんが、まばらな竹の木戸を、手を拡げつつ探り当てて、
「きっと飲ませますよ、この戸の工合《ぐあい》が気に入りました」
と勢《いきおい》よく、一足先に上ったが、程もあらせず、ざわざわざわと、落葉を鳴らして落来るばかりに引返して、
「退却……」
「え、安達《あだち》ヶ原ですか。」
と聞く方が慌てている。
「いいえ爺さんですがね、一人土間で草鞋《わらじ》を造っていましてね。何だ、誰じゃいッて喚《わめ》くんです。」
「いや、それは恐縮々々。」
「まことに済みません。発起人がこの様子で。」
「飛んでもない。こういう時は花道を歌で引込《ひっこ》むんです、柄にはありませんがね。何でしたっけ、……
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わが心なぐさめかねつ更科《さらしな》や
姨捨山に照る月をみて
[#ここで字下げ終わり]
照る月をみて慰めかねつですもの、暗いから慰められて可《い》いわけです。いよいよ路が分らなければ、停車場《ステエション》で、次の汽車を待って、松本まで参りましょう。時間がありますからそこは気丈夫です。」
しかるところ、暗がりに目が馴《な》れたのか、空は星の上に星が重《かさな》って、底《そこひ》なく晴れている――どこの峰にも銀の覆輪《ふくりん》はかからぬが、自《おのず》から月の出の光が山の膚《はだ》を透《とお》すかして、巌《いわ》の欠《かけ》めも、路の石も、褐色《かばいろ》に薄く蒼味《あおみ》を潮《さ》して、はじめ志した方へ幽《かすか》ながら見えて来た。灯前《あかりさき》の木の葉は白く、陰なる朱葉《もみじ》の色も浸《にじ》む。
かくして辿《たど》りついた薄暗い饂飩屋であった。
何《なん》しろ薄暗い。……赤黒くどんより煤《すす》けた腰障子の、それも宵ながら朦朧《もうろう》と閉っていて、よろず荒もの、うどんあり、と記した大《おおき》な字が、鼾《いびき》をかいていそうに見えた。
この店の女房が、東京ものは清潔《きれい》ずきだからと、気を利かして、正札のついた真新しい湯沸《ゆわかし》を達引《たてひ》いてくれた心意気に対しても、言われた義理ではないのだけれど。
「これは少々|酷過《ひどす》ぎますね。」
「ここまで来れば、あと一辛抱で、もうちとどうにかしたのがありましょう。」
実は、この段、囁《ささや》き合って、ちょうどそこが三岐《みつまた》の、一方は裏山へ上る山岨《やまそば》の落葉の径《こみち》。一方は崖を下る石ころ坂の急なやつ。で、その下りる方へ半町ばかりまた足探り試みたのであるが、がけの陰になって、暗さは暗し、路は悪し、灯《ひ》は遠し、
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