れど。」
「いいえ。」
「それはね、月見の人に、木曾の麻衣《あさぎぬ》まくり手したる坊さん、というのが、話をする趣向になっているんですがね。(更科山《さらしなやま》の月見んとて、かしこに罷《まかり》登りけるに、大《おおい》なる巌《いわ》にかたかけて、肘《ひじ》折《お》れ造りたる堂あり。観音を据え奉《たてまつ》れり。鏡台とか云う外山《とやま》に向いて、)……と云うんですから、今の月見堂の事でしょう。……きっとこの崖の半腹にありましょうよ。……そこの高欄におしかかりながら、月を待つ間《ま》のお伽《とぎ》にとて、その坊さんが話すのですが、薗原山《そのはらやま》の木賊刈《とくさがり》、伏屋里《ふせやのさと》の箒木《ははきぎ》、更科山の老桂《ふるかつら》、千曲川《ちくまがわ》の細石《さざれいし》、姨捨山の姥石《うばのいし》なぞッて、標題《みだし》ばかりでも、妙にあわれに、もの寂しくなるのです。皆この辺の、山々谷々の事なんでしょう。何《なん》にしろ、
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信濃なる千曲の川のさゞれ石も
君しふみなば玉とひろはん
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と言う場所なんですもの。――やあ、明るくなった。」
と思わず言った。
釣ランプが、真新しい、明《あかる》いのに取換ったのである。
「お待遠様、……済みません。」
「どういたしまして、飛んだ御無理をお願い申して。」
女房は崩れた鬢《びん》の黒い中から、思いのほか白い顔で莞爾《にっこり》して、
「私どもでは難有《ありがた》いんでございますけれども、まあ、何しろ、お月様がいらっしって下さると可いんですけれども。」
その時、一列に蒲鉾形《かまぼこがた》に反《そ》った障子を左右に開けると、ランプの――小村さんが用心に蔓《つる》を圧《おさ》えた――灯が一煽《ひとあおり》、山気が颯《さっ》と座に沁みた。
「一昨晩の今頃は、二かさも三かさも大《おおき》い、真円《まんまる》いお月様が、あの正面へお出《いで》なさいましてございますよ。あれがね旦那、鏡台山《きょうだいざん》でございますがね、どうも暗うございまして。」
「音に聞いた。どれ、」
と立つと、ぐらぐらとなる……
「おっと。」
欄干につかまって、蝸牛《かたつむり》という身で、背を縮めながら首を伸ばし、
「漆で塗ったようだ、ぼっと霧のかかった処は研出《とぎだ》しだね。」
宵の明星が晃然《きらり》と蒼《あお》い。
「あの山裾《やますそ》が、左の方へ入江のように拡がって、ほんのり奥に灯《あかり》が見えるでございましょう。善光寺平《ぜんこうじだいら》でございましてね。灯のありますのは、善光寺の町なんでございますよ。」
「何里あります。」
「八里ございます。」
「ははあ。」
「真下の谷底に、ちらちらと灯《ひ》が見えましょう、あそこが、八幡《やはた》の町でございましてね、お月見の方は、あそこから、皆さんが支度をなすって、私どもの裏の山へお上りになりますんでございますがね。鏡台山と、ちょうどさし向いになっております――おお、冷えますこと、……唯今《ただいま》お火鉢を。」
「小村さん、寸法は分りました、どうなすったんです、景色も見ないで。」
と座に戻ると、小村さんは真顔で膝《ひざ》に手を置いて、
「いえ、その縁側に三人揃って立ったんでは、桟敷《さじき》が落ちそうで危険《けんのん》ですから。」
「まったく、これで猿楽があると、……天狗が揺り倒しそうな処です。可恐《おそろ》しいね。」
と二人は顔を見合せた。
が、註文通り、火鉢に湯沸《ゆわかし》が天上して来た、火も赫《かッ》と――この火鉢と湯沸が、前に言った正札つきなる真新しいのである。酒も銚子《ちょうし》だけを借りて、持参の一升|壜《びん》の燗《かん》をするのに、女房は気障《きざ》だという顔もせず、お客|冥利《みょうり》に、義理にうどんを誂《あつら》えれば、乱れてもすなおに銀杏返《いちょうがえし》の鬢《びん》を振って、
「およしなさいまし、むだな事でございます。おしたじが悪くって、めしあがられやしませんから。……何ぞお香《こう》のものを差上げましょう。」
その心意気。
「難有《ありがた》い。」
と熱燗《あつかん》三杯、手酌でたてつけた顔を撫でて、
「おかみさん。」
杯をずいとさして、
「一つ申上げましょう、お知己《ちかづき》に……」
「私は一向に不調法ものでございまして。」
「まあ一盞《ひとつ》。」
「もう、全く。」
「でも、一盞《ひとつ》ぐらい、お酌をしましょう。」
と小村さんが銚子を持ったのに、左右に手を振って、辷《すべ》るように、しかも軋《きし》んで遁《に》げ下りる。
「何だい。」
「毒だとでも思いましたかね。してみると、お互の人相が思われます。おかみさん一人きりなんでしょうか
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