しら。」
「泊りましょうか。」
「御串戯《ごじょうだん》を。」
クイッ、キュウ、クック――と……うら悲《かなし》げに、また聞える。
「弱りました。あの狗《いぬ》には。」
と小村さんはまた滅入《めい》った。
のしのしみしり、大皿を片手に、そこへ天井を抜きそうに、ぬいと顕《あらわ》れたのは、色の黒い、いが栗《ぐり》で、しるし半纏《ばんてん》の上へ汚れくさった棒縞《ぼうじま》の大広袖《おおどてら》を被《はお》った、から脛《すね》の毛だらけ、図体は大《おおき》いが、身の緊《しま》った、腰のしゃんとした、鼻の隆い、目の光る……年配は四十|余《あまり》で、稼盛《かせぎざか》りの屈竟《くっきょう》な山賊面《さんぞくづら》……腰にぼッ込んだ山刀の無いばかり、あの皿は何《な》んだ、へッへッ、生首|二個《ふたつ》受取ろうか、と言いそうな、が、そぐわないのは、頤《あご》に短い山羊髯《やぎひげ》であった。
「御免なせえ……お香のものと、媽々衆《かかしゅ》が気前を見せましたが、取っておきのこの奈良漬、こいつあ水ぽくてちと中《ちゅう》でがす。菜ッ葉が食えますよ。長蕪《ながかぶ》てッて、ここら一体の名物で、異《おつ》に食えまさ、めしあがれ。――ところで、媽々衆のことづてですがな。せつかく御酒を一つと申されたものを、やけな御辞退で、何だかね、南蛮《なんばん》秘法の痲痺薬《しびれぐすり》……あの、それ、何とか伝三熊の膏薬《こうやく》とか言う三題|噺《ばなし》を逆に行ったような工合で、旦那方のお酒に毒でもありそうな様子|合《あい》が、申訳がございません。で、居候の私《わっし》に、代理として一杯、いんえただ一つだけ。おしるしに頂戴してくれるようにと申すんで、や、も、御覧の通《とおり》、不躾《ぶしつけ》ながら罷《まかり》出ました。実はね、媽々衆、ああ見えて、浮気もんでね、亭主は旅稼ぎで留守なり、こちらのお若い方のような、おッこちが欲しさに、酒どころか、杯を禁《た》っておりますんでね。はッはッはッ。」
階子《はしご》の下から、伸上った声がして、
「馬鹿な事を言わねえもんだ。」
と、むきになると、まるだしの田舎なまり。
「真鍮台《しんちゅうだい》め。」と言った。
「……真鍮台?……」
聞くと……真鍮台、またの名を銀流しの藤助《とうすけ》と言う、金箔《きんぱく》つきの鋳掛屋で、これが三味線の持ぬしであった。面構《つらがまえ》でも知れる……このしたたかものが、やがて涙ぐんで……話したのである。
三
「私《わッし》はね、旦那。まだその時分、宿を取っちゃあいなかったんでございます、居酒屋、といった処で、豆腐も駄菓子も突《つッ》くるみに売っている、天井に釣《つる》した蕃椒《とうがらし》の方が、燈《ひ》よりは真赤《まっか》に目に立つてッた、皺《しな》びた店で、榾《ほだ》同然の鰊《にしん》に、山家|片鄙《へんぴ》はお極《きま》りの石斑魚《いわな》の煮浸《にびたし》、衣川《ころもがわ》で噛《くい》しばった武蔵坊弁慶の奥歯のようなやつをせせりながら、店前《みせさき》で、やた一きめていた処でございましてね。
ちょっと私《わっし》の懐中合《ふところあい》と、鋳掛屋風情のこの容体では、宿が取悪《とりにく》かったんでございますよ。というのが、焼山《やけやま》の下で、パッと一くべ、おへッつい様を燃《も》したも同じで、山を越しちゃあ、別に騒動も聞えなかったんでございますが、五日ばかり前に、その温泉に火事がありました。ために、木賃らしい、この方に柄相当のなんぞ焼けていて、二三軒残ったのは、いずれも玄関附だからちとたじろいだ次第なんでございますが。
ええ……温泉でございますか、名は体をあらわすとか言います、とんだ山中《やまなか》で、……狼温泉――」
「ああ、どこか、三峰山《みつみねさん》の近所ですか。」
と、かつて美術学校の学生時代に、そのお山へ抜参《ぬけまい》りをして、狼よりも旅費の不足で、したたか可恐《こわ》い思いをした小村さんは、聞怯《ききおじ》をして口を入れた……噛《か》むがごとく杯を銜《ふく》みながら、
「あすこじゃあ、お狗様《いぬさま》と言わないと山番に叱られますよ。」
藤助は真顔で、微酔《ほろよい》の頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「途方もねえ、見当違い、山また山を遥《はるか》に離れた、峰々、谷々……と言えばね、山の中に島々と言う処がありまさ、おかしいね。いやもっと、深い、松本から七里も深《おく》へ入った、飛騨《ひだ》の山中――心細い処で……それでも小学校もありゃ、郵便局もありましたっけが、それなんぞも焼けていたんでございましてね。
山坂を踏越えて、少々|平《たいら》な盆地になった、その温泉場へ入りますと、火沙汰《ひざた》はまた格別、……酷《ひど》い
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