のです、と言った。
 ――汽車は赤城山《あかぎさん》をその巽《たつみ》の窓に望んで、広漠たる原野の末を貫いていたのであった。――
 渠《かれ》は電信技師である。立野竜三郎《たつのりゅうざぶろう》と自ら名告《なの》った。渠《かれ》はもとより両親も何もない、最愛の児《こ》を失い、最愛の妻を失って、世を果敢《はかな》むの余り、その妻と子の白骨と、ともに、失うべからざるものの一式、余さずこの古革鞄に納めた、むしろ我が孤《みひとつ》の煢然《けいぜん》たる影をも納めて、野に山に棄つるがごとく、絶所、僻境《へききょう》を望んで飛騨山中の電信局へ唯今赴任する途中である。すでに我身ながら葬り去った身は、ここに片袖とともに蘇生《よみがえ》った。蘇生ると同時に、罪は死である。否《いや》、死はなお容易《たやす》い、天の咎《とが》、地の責《せめ》、人の制規《おきて》、いかなる制裁といえども、甘んじて覚悟して相受ける。各位が、我《わが》ために刑を撰んで、その最も酷なのは、磔《はりつけ》でない、獄門でない、牛裂《うしざき》の極刑でもない。この片袖を挟んだ古革鞄を自分にぶら下げさせて、嫁御寮のあとに犬のごとく従わせて、そのまま今日《こんにち》の婿君の脚下に拝し跪《ひざまず》かせらるる事である。諾《よし》、その厳罰を蒙《こうむ》りましょう、断じて自分はこの革鞄を開いて片袖は返さぬのである。ただ、天地神明に誓うのは、貴女《きじょ》の淑徳と貞潔である。自分は生れてより今に及んで、その姿を視《み》たのはわずかに今より前《ぜん》、約三十分に過ぎない、……包ましくさしうつむかれた淑女は、申すまでもなく、自分に向って瞳をも動かされなかった事を保証する、――謹んで断罪を待ちます……各位。
 吶々《とつとつ》として、しかも沈着に、純真に、縷々《るる》この意味の数千言を語ったのが、轟々《ごうごう》たる汽車の中《うち》に、あたかも雷鳴を凌《しの》ぐ、深刻なる独白のごとく私たちの耳に響いた。
 附添の数多《あまた》の男女は、あるいは怒り、あるい罵《ののし》り、あるいは呆れ、あるいは呪詛《のろ》った。が、狼狽《ろうばい》したのは一様である。車外には御寮を迎《むかえ》の人数《にんず》が満ちて、汽車は高崎に留まろうとしたのであるから……
 既に死灰のごとく席に復して瞑目《めいもく》した技師がその時再び立った。ここに手段があります、天が命ずるにあらず、地が教うるにあらず、人の知れるにあらず、ただ何ものの考慮とも分らない手段である……すなわち小刀《ナイフ》をもって革鞄を切開く事なのです。……私《わたくし》は拒みません。刀ものは持合せました、と云って、鞘《さや》をパチンと抜いて渡したのを、あせって震える手に取って、慳相《けんそう》な女親が革鞄の口を切裂こうとして、屹《きっ》と猜疑《さいぎ》の瞳を技師に向くると同時に、大革鞄を、革鞄のまま提げて、そのまま下車しようとした時であった。
「いいえ!」
 と一言《ひとこと》、その窈窕たる淑女は、袖つけをひしと取って、びりびりと引切《ひっき》った。緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》が※[#「火+發」、192−6]《ぱっ》と燃える、片身を火に焼いたように衝《つッ》と汽車を出たその姿は、かえって露の滴るごとく、おめき集《つど》う群集は黒煙《くろけむり》に似たのである。
 技師は真俯向《まうつむ》けに、革鞄の紫の袖に伏した。
 乗合は喝采《かっさい》して、万歳の声が哄《どっ》と起った。
 汽車の進むがままに、私たちは窓から視《み》た。人数に抱上げらるるようになって、やや乱れた黒髪に、雪なす小手を翳《かざ》して此方《こなた》を見送った半身の紅《くれない》は、美しき血をもって描いたる煉獄《れんごく》の女精であった。
 碓氷の秋は寒かった。

       八

 藤助は語り継いだ。
「姉《ねえ》さんが、そうすると……驚いたように、
(あれ、それを見ちゃ不可《いけ》ません。)
(やあ、つい麁※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]《そそう》を。)
 と、何事も御意のまま、頭をすくめて恐縮をしますとね、低声《こごえ》になって気の毒そうに、
(でも、あの、そういう私が、密《そっ》と出して、見たいんでございます。)
(そこで鍵が御入用。)
(ええ、ですけど、人様のものを、お許しも受けないで、内証で見ては悪うございましょうねえ。)
(何、開けたらまた閉めておきゃあ、何でもありゃしませんや。)
 とその容子《ようす》だもの、お前さん、何だって構やしません。――お手軽様に言って退《の》けると、口に袖をあてながら、うっかり釣込まれたような様子でね、また前後《あとさき》を視《み》ましたっけ。
(では、ちょっと今のうち鋳掛屋さん、あなたお職柄で鍵を拵《こしら》えるより前《さき》に、手
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