》る。
 藤助は一笑して、
「まずは、この寸法でございましてね、お道さんを引寄せた工合というのが、あはッはッ。」

       六

「見ない振《ふり》、知らない振、雪の遠山《とおやま》に向いて、……溶けて流れてと、唄っていながら、後方《うしろ》へ来るのが自然と分るね、鹿の寄るのとは違います。……別嬪の香《かおり》がほんのりで、縹緻《きりょう》に打たれて身に沁む工合が、温泉の女神様《おんながみさま》が世話に砕けて顕《あらわ》れたようでございましたぜ。……(逢いたさに見たさに)何とか唄《や》って、チャンと句切ると、
(あの、鋳掛屋さん。)
 と、初音《はつね》だね。……
 視《み》ると、朱塗の盆に、吸子《きびしょ》、茶碗を添えて持っている。黒繻子《くろじゅす》の引掛帯《ひっかけおび》で、浅葱《あさぎ》の襟のその様子が何とも言えねえ。
 いえ、もう一つ、盆の上に、紙に包んだ蝶々というのが載《の》っていました。……それがために讃《ほ》めるんじゃあねえけれど、拵《こしら》えねえで、なまめいたもんでしたぜ。人を喰ったこっちの芳原かぶりなんざ、もの欲しそうで極《きま》りが悪くなったくらいで。
(へい、へい、へい、こりゃ奥様、恐入りました。)
 とわざとらしくも、茶碗をな、両手で頂かずにゃいられなかった。
 姉《ねえ》さんが、初々しい、しおらしい事を、お聞きなせえ、ぽうッとなって、
(まあ、あんな事、私は奉公人なんですよ。)
 さ、その奉公人風情が、生意気のようだけれど、唄をもう一つ唄って聞かしてもらえまいか、と言うんじゃありませんかい。お眺《あつらえ》が註文にはまった。こんな処でよろしければ、山で樹の数、幾つだって構やあしませんと、……今度は(浮世はなれて奥山ずまい、恋もりん気も忘れていたが、)……で御機嫌を取結ぶと、それよりか、やっぱり、先《せん》の(やがて嬉しく溶けて流れて合うのじゃわいな)の方を聞かして欲しいと、山姫様、御意遊ばす。」
 藤助は杯でちょっと句切って、眉も口も引緊《ひきしま》った。
「旦那方の前でございますがね、こう中腰に、〆加減《しめかげん》の好《い》い帯腰で、下に居て、白い細い指の先を、染めた草につくようにして熟《じっ》と聞く。……聞手が、聞手だ。唄う方も身につまされて、これでもお前さん、人間|交際《づきええ》もすりゃ、女|出入《でいり》も知らねえじゃあねえ。少《わか》い時を思い出して、何となく、我身ながら引入れられて、……覚えて、ついぞねえ、一生に一度だ。較《くら》べものにゃあなりませんが、むかし琵琶法師《びわほうし》の名誉なのが、こんな処で草枕、山の神様に一曲奏でた心持。
 と姉さんがとけて流れて合うのじゃわいなと、きき入りながら、睫毛《まつげ》を長くうつむいて、ほろりとした時、こっらも思わず、つい、ほろり……いえさ、この面《つら》だからポタリと出ました。」
 と口では言いつつ声が湿った。
「(つかん事を聞きますけれど、鋳掛屋さん、錠の合鍵《あいかぎ》を頼まれて下さいますか。)……と姉さんがね。
 私《わっし》あこれを聞いて、ポンと両手を拍《う》った。
 このくらいつく事は、私の唄が三味線につくようなもんじゃあねえ。
(鍵が狂ったんでございますかい。)
(いいえ、無いんですけれど。)
(雑作はがあせん、煙草三服飲む間《うち》だ。)
 そこで錠前を見て、という事になると、ちと内証事らしい。……しとやかな姉さんが、急に何だか、そわついて、あっちこっち※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しましたが、高い処にこう立つと、風が攫《さら》って、すっと、雲の上へ持って行《ゆ》きそうで危《あぶな》ッかしいように見えます。
 勿論人影は、ぽッつりともない。
 が、それでも、天幕《テント》の正面からじゃあ、気咎《きとが》めがしたと見えて、
(済みませんが、こっちから。)
 裏へ廻わると、綻《ほころ》びた処があるので。……姉さんは科《しな》よく消えたが、こっちは自雷也《じらいや》の妖術にアリャアリャだね。列子《せこ》という身で這込《はいこ》みました。が、それどころじゃあねえ。この錠前だと言うのを一見に及ぶと、片隅に立掛けた奴だが、大蝦蟆《おおがま》の干物とも、河馬《かば》の木乃伊《みいら》とも譬《たと》えようのねえ、皺《しな》びて突張《つっぱ》って、兀斑《はげまだら》の、大古物の大《でっ》かい革鞄《かばん》で。
 こいつを、古新聞で包んで、薄汚れた兵児帯《へこおび》でぐるぐると巻いてあるんだが、結びめは、はずれて緩んで、新聞もばさりと裂けた。そこからそれ、煤《すす》を噴きそうな面《つら》を出して、蘆《あし》の茎《ずい》から谷|覗《のぞ》くと、鍵の穴を真黒《まっくろ》に窪ましているじゃアありませんか。
(何が入ってお
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