一つ、道も白く乾いて、枯草がぽかぽかする。……芳《かんば》しい落葉の香のする日の影を、まともに吸って、くしゃみが出そうなのを獅噛面《しかみづら》で、
(鋳掛……錠前の直し。)
すくッと立った電信柱に添って、片枝折れた松が一株、崖へのしかかって立っています、天幕張だろうが、掘立小屋だろうが、人さえ住んでいれば家業|冥利《みょうり》……
(鋳掛……錠前直し。)……
と、天幕とその松のあります、ちょっと小高くなった築山《つきやま》てった下を……温泉場の屋根を黒く小さく下に見て、通りがかりに、じろり……」
藤助は、ぎょろりとしながら、頬辺《ほっぺた》を平手で敲《たた》いて、
「この人相だ、お前さん、じろりとよりか言いようはねえてね、ト行《や》った時、はじめて見たのが湯女のその別嬪だ。お道さんは、半襟の掛った縞の着ものに、前垂掛《まえだれがけ》、昼夜帯、若い世話女房といった形で、その髪のいい、垢抜《あかぬけ》のした白い顔を、神妙に俯向《うつむ》いて、麁末《そまつ》な椅子に掛けて、卓子《テエブル》に凭掛《よりかか》って、足袋を繕っていましたよ、紺足袋を……
(鋳掛……錠前の直し。)……
ちょっと顔を上げて見ましたっけ。直《すぐ》に、じっと足袋を刺すだて。
動いただけになお活《い》きて、光沢《つや》を持った、きめの細《こまか》な襟脚の好《よ》さなんと言っちゃねえ。……通り切れるもんじゃあねえてね、お前さん、雲だか、風だか、ふらふらと野道山道宿なしの身のほまちだ。
一言《ひとこと》ぐらい口を利いて、渋茶の一杯も、あのお手からと思いましたがね、ぎょっとしたのは半分焦げたなりで天幕の端に真直《まっすぐ》に立った看板だ。電信局としてある……
茶屋小屋、出茶屋の姉《ねえ》さんじゃあねえ。風俗《なりふり》はこの目で確《たしか》に睨《にら》んだが……おやおや、お役人の奥様かい。……郵便局員の御夫人かな。
これが旦那方だと仔細《しさい》ねえ。湯茶の無心も雑作はねえ。西行法師なら歌をよみかける処だが、山家めぐりの鋳掛屋じゃあ道を聞くのも跋《ばつ》が変だ。
ところで、椅子はまだ二三脚、何だか、こちとらにゃ分らねえが、ぴかぴか機械を据附けた卓子《テエブル》がもう一台。向ってきちんと椅子が置いてあるが、役人らしいのは影も見えねえ。
ははあ、来る道で、向《むこう》の小山の土手腹《どてっぱら》に伝わった、電信の鋼線《はりがね》の下あたりを、木の葉の中に現れて、茶色の洋服で棒のようなものを持って、毛虫が動くように小さく歩行《ある》いている形を視《み》た。……鉄砲打の鳥おどしかと思ったが、大きにそんなのが局員の先生で、この姉さんの旦那かも知れねえよ。
が何しろ留守だ。
(鋳掛……錠前直し。)……
と崖ぶちの日向《ひなた》に立ったが、紺足袋の繕い。……雪の襟脚、白い手だ。悚然《ぞっ》とするほど身に沁みてなりませんや。
遥《はるか》に見える高山の、かげって桔梗色《ききょういろ》したのが、すっと雪を被《かつ》いでいるにつけても。で、そこへまず荷をおろしました。
(や、えいとこさ。)と、草鞋《わらじ》の裏が空へ飜《かえ》るまで、山端《やまばた》へどっしりと、暖かい木の葉に腰を落した。
間拍子もきっかけも渡らねえから、ソレ向うの嶽《たけ》の雪を視《み》ながら、
(ああ、降ったる雪かな。)
とか何とか、うろ覚えの独言《ひとりごと》を言ってね、お前さん、
(それ、雪は鵝毛《がもう》に似て飛んで散乱し、人は鶴※[#「敞/毛」、第3水準1−86−46]《かくしょう》を着て立って徘徊《はいかい》すと言えり……か。)
なんのッて、ひらひらと来る紅色《べにいろ》の葉から、すぐに吸いつけるように煙草《たばこ》を吹かした。が、何分にも鋳掛屋じゃあ納《おさま》りませんな。
ところでさて、首に巻いた手拭《てぬぐい》を取って、払《はた》いて、馬士《まご》にも衣裳《いしょう》だ、芳原かぶりと気取りましたさ。古三味線を、チンとかツンとか引掻鳴《ひっかきな》らして、ここで、内証で唄ったやつでさ。
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峰の白雪、麓の氷――
[#ここで字下げ終わり]
旦那、顔を見っこなし……極《きまり》が悪い……何と、もし、これで別嬪の姉さんを引寄せようという腹だ、おかしな腹だ、狸《たぬき》の腹だね。
だが、こいつあこちとら徒《であい》の、すなわち狸の腹鼓という甘術《あまて》でね。不気味でも、気障《きざ》でも、何でも、聞く耳を立てるうちに、うかうかと釣出されずにゃいねえんだね。どうですえ、……それ、来ました。」
と不意に振向く、階子段《はしごだん》の暗い穴。
小村さんも私も慄然《ぞっと》した。
女房はなおの事……
「あれ、吃驚《びっくり》した。」
と膝で摺寄《すりよ
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