はしません。私は、馬鹿が嬉しゅうございます。)
(弱った。これ、詰《つま》らん、そんな。)
(お手間が取れます。)
(さあ、お退《ど》き、これ、そっちへ。)
(いいえ、いいえ。)
 否々《いやいや》をして、頭《かぶり》をふって甘える肩を、先生が抱いて退《の》けようとするなり、くるりとうしろ向きになって、前髪をひしと胸に当てました。
 呼吸《いき》を鎮《しず》めて、抱《いだ》いた腕を、ぐいと背中へ捲《ま》きましたが、
(お退《ど》きと云うに。――やあ、お道さんの御《おん》母君、御《ご》母堂、お記念《かたみ》の肉身と、衣類に対して失礼します、御許し下さい……御免。)
 と云うと、抱倒して、
(ああれ。)
 と震えてもがくのを、しかと片足に蹈据《ふみす》えて、仁王立《におうだち》にすっくと立った。
(用意は宜《よろ》しい。……縫子さん。)
(…………)
(…………)
(さようなら……)
(……さようなら、貴方。)
 日光の御廟《おたまや》の天井に、墨絵の竜があって鳴きます、尾の方へ離れると音はしねえ、頤《あご》の下の低い処で手を叩くと、コリンと、高い天井で鳴りますので、案内者は、勝手に泣竜と云うのでございますが、同じ音で。――
 コリンと響いたと思うと、先生の身体《からだ》は左右へふらふらして動いたが、不思議な事には倒れません。
 南無三宝《なむさんぽう》。
 片手づきに、白襟の衣紋《えもん》を外らして仰向《あおむ》きになんなすった、若奥様の水晶のような咽喉《のど》へ、口からたらたらと血が流れて、元結《もっとい》が、ぷつりと切れた。
 トタンにな、革鞄の袖が、するすると抜けて落ちました。
(貴方……短銃《ピストル》を離しても、もう可《よ》うございますか。)
 若旦那が跪《ひざまず》いてその手を吸うと、釣鐘を落したように、軽そうな手を柔かに、先生の膝に投げて、
(ああ、嬉しい。……立野さん、お道さん、短銃をそちらへ向けて打つような女とお思いなさいましたか。)
(只今《ただいま》、立処《たちどころ》に自殺します。)
 と先生の、手をついて言うのをきいて、かぶりを掉《ふ》って、櫛笄《くしこうがい》も、落ちないで、乱れかかる髪をそのまま莞爾《にっこり》して、
(いいえ、百万年の後《のち》に……また、お目にかかります。お二方に、これだけに思われて、縫は世界中のしあわせです――貴方、
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