《ひ》の紋縮緬《もんちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》が半身に流れました。……袖を切ったと言う三年前《ぜん》の婚礼の日の曠衣裳《はれいしょう》を、そのままで、一方紫の袖の紋の揚羽の蝶は、革鞄に留まった友を慕って、火先にひらひらと揺れました。
 若奥様が片膝ついて、その燃ゆる火の袖に、キラリと光る短銃《ピストル》を構えると、先生は、両方の膝に手を垂れて、目を瞑《つむ》って立ちました。
(お身代りに私が。)
 とお道さんが、その前に立塞《たちふさ》がった。
「あ、危い、あなた。」
 と若旦那が声を絞った。
 若奥様は折敷いたままで、
(不可《いけ》ません――お道さん。)
(いいえ、本望でございます。)
(私が肯《き》きません。)
 と若奥様が頭《かぶり》を掉《ふ》ります。
(貴方が、お肯き遊ばさねば、旦那様にお願い申上げます。こんな山家の女でも、心にかわりはござんせん、願《ねがい》を叶《かな》えて下さいまし。お情《なさけ》はうけませんでも、色も恋も存じております。もみじを御覧なさいまし、つれない霜にも血を染めます。私はただ活《い》きておりますより、旦那さんのかわりに死にたいのです。その方が嬉しいのです。こんな事があろうと思って、もう家を出ます時、なくなった母親の記念《かたみ》の裾模様を着て参りました。……手織木綿に前垂《まえだれ》した、それならば身分相応ですから、人様の前に出られます。時おくれの古い紋着《もんつき》、襦袢も帯もうつりません、あられもないなりをして、恋の仇《かたき》の奥様と、並んでここへ参りました。ふびんと思って下さいまし。ああ女は浅間しい、私にはただ一枚、母親の記念《かたみ》だけれど、奥様のお姿と、こんなはかないなりをくらべて、思う方の前に出るのは死ぬよりも辛うござんす。それさえ思い切りました。男のために死ぬのです。冥加《みょうが》に余って勿体ない。……ただ心がかりなは、私と同じ孤児《みなしご》の、時ちゃん―少年の配達夫―の事ですが、あの児《こ》も先生おもいですから、こうと聞いたら喜びましょう。)
 若旦那の目にも、奥様にも、輝く涙が見えました。
 先生は胸に大波を打たせながら、半ば串戯《じょうだん》にするように、手を取って、泣笑《なきわらい》をして、
(これ、馬鹿な、馬鹿な、ふふふ、馬鹿を事を。)
(ええ、馬鹿な女でなくっては、こんなに旦那様の事を思い
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