なた》の、お心に任せます。要はただ、着弾距離をお離れになりません事です。)
(一歩もここを動きません。)
 先生は、拱《こまぬ》いた腕を解いて言いましたぜ。」
 ――そうだろうと、私たちも思ったのである。

       十

「堪《たま》らねえやね。お前さん。
 私《わっし》あ猿坊《えてんぼ》のように、ちょろりと影を畝《うね》って這出《はいだ》して、そこに震えて立っている、お道姉さんの手に合鍵を押《おッ》つけた。早く早く、と口じゃあ言わねえが、袖を突いた。
 ――若奥様の手が、もう懐中《ふところ》に入った時でございますよ。
(御免遊ばせ。)
 と縋《すが》りつくように、伸上って、お道さんが鍵を合せ合せするのが、あせるから、ツルツルと二三度|辷《すべ》りました。
(ああ、ちょっと。)
 と若奥様が、手で圧《おさ》えて、
(どうぞ……そればかりは。)
 と清《すず》しく言います。この手二つが触ったものを、錠前の奴、がんとして、雪になっても消えなんだ。
 舌の硬《こわ》ばったような先生が、
(飛んでもない事――お道さん。)
(いいえ、構いません。)
 と若旦那はきっぱりと、
(飛んでもない事ではありません。それが当然なのです。立野さん。貴下《あなた》が御自分でなくっても、貴下が許して、錠前をさえお開き下さるなら――方法は択《えら》びません。短銃《ピストル》なんぞ何になりましょう、私はそれで満足します。)
(旦那様。)
 と精一杯で、お道さんが、押留められた一つの手を、それなり先生の袖に縋って、無量の思《おもい》の目を凝らした。
(はあ、)
 と落込むような大息して、先生の胸が崩れようとしますとな。
(貴方、……あの鍵が返りましたか。……優しい、お道さん、美しい、姉《ねえ》さん、……お優しい、お美しい姉さんに、貴方はもうお心が移りましたか。)
 と云って、若奥様が熟《じっ》と視《み》ました。
 先生が蒼くなって、両手でお道さんを押除《おしの》けながら、
(これは余所《よそ》の娘です、あわれな孤児《みなしご》です。)
 とあとが消えた。
(決行なさい、縫子。)
(…………)
(打て、お打ちなさい。)
(唯今。)
 と肩を軽く斜めに落すと、コオトが、すっと脱げたんです。煽《あお》りもせぬのに気が立って、颯《さっ》と火の上る松明《たいまつ》より、紅《くれない》に燃立つばかり、緋
前へ 次へ
全40ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング