が忘れられねえ!……睫毛《まつげ》にたまって、涙が一杯。……風が冷く、山はこれから、湿っぽい。
 秋の日は釣瓶《つるべ》落しだ、お前さん、もうやがて初冬《はつふゆ》とは言い条、別して山家だ。静《しずか》に大沼の真中《まんなか》へ石を投げたように、山際へ日暮の波が輪になって颯《さっ》と広がる中で、この藤助と云う奴が、何をしたと思召《おぼしめ》す。
 三尺をしめ直す、脚絆の埃《ほこり》を払《はた》いたり、荷づなを天秤《てんびん》に掛けたり、はずしたり。……三味線の糸をゆるめたり、袋に入れたり……さてまた袋を結んだり。
 そこへ……いまお道さんが下りました、草にきれぎれの石段を、攀《よ》じ攀じ、ずッと上《あが》って来た、一個《ひとり》、年紀《とし》の少《わか》い紳士《だんな》があります。
 山の陰気な影をうけて、凄《すご》いような色の白いのが、黒の中折帽を廂下《ひさしさが》りに、洋杖《ステッキ》も持たず腕を組んだ、背広でオオバアコオトというのが、色がまた妙に白茶けて、うそ寂しい。瘠《や》せて肩の立った中脊でね。これが地蔵様の前へ来て、すっくりと立ったと思うと、頭髪《かみ》の伸びた技師の先生が、ずかずかと天幕を出ました。
 それ、卓子《テエブル》を中に、控えて、開いて、屹《きっ》と向合ったと思召せ。
 少《わか》い紳士《だんな》が慇懃《いんぎん》に、
(失礼ですが、立野竜三郎氏でいらっしゃいますか。)
(さよう、お尋ねを蒙《こうむ》りました竜三郎、私《わたくし》であります。)
(申しおくれました、私は村上|八百次郎《やおじろう》と申すものです。はじめてお目にかかります……唯今、名刺を。)
(いや。)
 と先生、卓子の上へ両手をずかと支《つ》いて、
(三年|前《ぜん》から、御尊名は、片時といえども相忘れません、出過ぎましたが、ほぼ、御訪問[#「訪問」は底本では「訪門」]に預りました御用向《ごようむき》も存じております。)
 と、少《わか》いのが少し屹《きっ》となって、
(用向を御存じですか?)
(まず、お掛け下さい。)
 と先生は、ドカリと野天の椅子に掛けた。
 何となく気色ばんだ双方の意気込が、殺気を帯びて四辺《あたり》を払った。この体《てい》を視た私《わっし》だ。むかし物語によくあります、峰の堂、山の祠《ほこら》で、怪しく凄《すご》い神たちが、神つどいにつどわせたという場
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