まずいが、言う事がまずくて不可《いか》んです。間違じゃあない、故障です、素人は気なしだからして、あんな狭い天幕の中で、器械にでも障って、また故障にでもなると不可んのだ。決して心配な事ではないのです、――さあ飯だ、飯だ。)
 と今度はなぜか、箸を着けずに弁当をしまいかけて、……親方の手前もある、客に電報が来た様子では、また和女《おまえ》の手も要るだろう、余り遅くならないうちにと、懇《ねんごろ》に言うと、
(はい、はい。)
 と柔順《すなお》に返事する。片手間に、継掛けの紺足袋と、寝衣《ねまき》に重ねる浴衣のような洗濯ものを一包、弁当をぶら下げて、素足に藁草履《わらぞうり》、ここらは、山家で――悄々《しおしお》と天幕を出た姿に、もう山の影が薄暗く隈を取って映りました。
(今、何時だろう。)
 と天幕口へ出て、先生が後姿を呼びましたね。
(……四時半頃にもなりましょうか。)
(時計が止《とま》ったよ――気をつけておいで。)
 と大《おおき》な懐中時計と、旗竿の影を、すっくり立って、片頬《かたほ》夕日を浴びながら、熟《じっ》と落着いて視《なが》めていなさる。……落着いて視《み》ちゃあいなすったが、先生少々どうかなさりやしねえのかと思ったのは、こう変に山が寂しくなって、通魔《とおりま》でもしそうな、静寂《しじま》の鐘の唄の塩梅《あんばい》。どことなくドン――と響いて天狗倒《てんぐだおし》の木精《こだま》と一所に、天幕の中《うち》じゃあ、局の掛時計がコトリコトリと鳴りましたよ。
 お地蔵様が一体、もし、この梟ヶ嶽の頭を肩へ下り口に立ってござる。――私《わっし》どもは、どうかすると一日《いちんち》の中《うち》にゃ人間の数より多くお目に掛《かか》る、至極|可懐《なつか》しいお方だが……後で分りました。この丘は、むかし、小さな山寺があったあとだそうで、そう言や草の中に、崩れた石の段々が蔦《つた》と一所に、真下の径《こみち》へ、山懐《やまぶところ》へまとっています。その下の径というのが、温泉宿《ゆのやど》入りの本街道だね。
 お道さんが、帰りがけに、その地蔵様を拝みました。石の袈裟《けさ》の落葉を払って、白い手を、じっと合せて、しばらくして、
(また、お目にかかります。)
 と顔を上げて、
(後程に――)
 もう先生は天幕へ入った――で、私《わっし》にしみじみとした調子で云った時の面影
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