雨ばけ
泉鏡花

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)然《しか》るべき

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|燈《とう》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ひよろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 あちこちに、然《しか》るべき門は見えるが、それも場末で、古土塀《ふるどべい》、やぶれ垣《がき》の、入曲《いりまが》つて長く続く屋敷町《やしきまち》を、雨《あま》もよひの陰気な暮方《くれがた》、その県の令《れい》に事《つか》ふる相応《そうおう》の支那《しな》の官人が一人、従者を従《したが》へて通り懸《かか》つた。知音《ちいん》の法筵《ほうえん》に列するためであつた。
 ……来かゝる途中に、大川《おおかわ》が一筋《ひとすじ》流れる……其《そ》の下流のひよろ/\とした――馬輿《うまかご》のもう通じない――細橋《ほそばし》を渡り果てる頃、暮《くれ》六《む》つの鐘がゴーンと鳴つた。遠山《とおやま》の形が夕靄《ゆうもや》とともに近づいて、麓《ふもと》の影に暗く住む伏家《ふせや》の数々、小商《こあきない》する店には、早《は》や佗《わび》しい灯《ひ》が点《とも》れたが、此《こ》の小路《こうじ》にかゝると、樹立《こだち》に深く、壁に潜《ひそ》んで、一|燈《とう》の影も漏《も》れずに寂《さみ》しい。
 前途《ぜんと》を朦朧《もうろう》として過《よぎ》るものが見える。青牛《せいぎゅう》に乗つて行《ゆ》く。……
 小形の牛だと言ふから、近頃|青島《せいとう》から渡来《とらい》して荷車《にぐるま》を曳《ひ》いて働くのを、山の手でよく見掛ける、あの若僧《わかぞう》ぐらゐなのだと思へば可《い》い。……荷鞍《にぐら》にどろんとした桶《おけ》の、一抱《ひとかかえ》ほどなのをつけて居る。……大《おおき》な雨笠《あまがさ》を、ずぼりとした合羽《かっぱ》着た肩の、両方かくれるばかり深く被《かぶ》つて、後向《うしろむ》きにしよんぼりと濡《ぬ》れたやうに目前《めさき》を行く。……とき/″\、
「とう、とう、とう/\。」
 と、間《あいだ》を置いては、低く口の裡《うち》で呟《つぶや》くが如くに呼んで行く。
 私は此《これ》を読んで、いきなり唐土《もろこし》の豆腐屋《とうふや》だと早合点《はやがてん》をした。……処《ところ》が然《そ》うでない。
「とう、とう、とう/\。」
 呼声《よびごえ》から、風体《なり》、恰好《かっこう》、紛れもない油屋《あぶらや》で、あの揚《あげ》ものの油を売るのださうである。
「とう、とう、とう/\。」
 穴から泡《あわ》を吹くやうな声が、却《かえ》つて、裏田圃《うらたんぼ》へ抜けて変に響いた。
「こら/\、片寄《かたよ》れ。えゝ、退《ど》け/\。」
 威張《いば》る事にかけては、これが本場の支那《しな》の官人である。従者が式《かた》の如く叱《しか》り退《の》けた。
「とう、とう、とう/\。」
「やい、これ。――殿様のお通りだぞ。……」
 笠《かさ》さへ振向《ふりむ》けもしなければ、青牛《せいぎゅう》がまたうら枯草《がれくさ》を踏む音も立てないで、のそりと歩む。
「とう、とう、とう/\。」
 こんな事は前例が嘗《かつ》てない。勃然《ぼつぜん》としていきり立つた従者が、づか/\石垣を横に擦《す》つて、脇鞍《わきぐら》に踏張《ふんば》つて、
「不埒《ふらち》ものめ。下郎《げろう》。」
 と怒鳴《どな》つて、仰《あお》ぎづきに張肱《はりひじ》でドンと突いた。突いたが、鞍の上を及腰《およびごし》だから、力が足りない。荒く触つたと言ふばかりで、その身体《からだ》が揺れたとも見えないのに、ぽんと、笠《かさ》ぐるみ油売《あぶらうり》の首が落ちて、落葉《おちば》の上へ、ばさりと仰向《あおむ》けに転げたのである。
「やあ、」とは言つたが、無礼討御免《ぶれいうちごめん》のお国柄《くにがら》、それに何、たかが油売の首なんぞ、ものの数ともしないのであつた。が、主従《しゅうじゅう》ともに一驚《いっきょう》を吃《きっ》したのは、其の首のない胴躯《どうむくろ》が、一煽《ひとあお》り鞍に煽《あお》ると斉《ひと》しく、青牛《せいぎゅう》の脚《あし》が疾《はや》く成つて颯《さっ》と駈出《かけだ》した事である。
 ころげた首の、笠と一所《いっしょ》に、ぱた/\と開《あ》く口より、眼球《めだま》をくる/\と廻して見据《みす》ゑて居た官人が、此の状《さま》を睨《にら》み据《す》ゑて、
「奇怪ぢや、くせもの、それ、見届けろ。」
 と前に立つて追掛《おいか》けると、ものの一|町《ちょう》とは隔《へだ》たらない、石垣も土塀《どべい》も、葎《むぐら》に路《みち》の曲角《まがりかど》。突当《つきあた》りに
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング