がら、袖に構えた扇の利剣、霜夜に声も凜々《りんりん》と、
「……引上げたまえと約束し、一つの利剣を抜持って……」
肩に綾《あや》なす鼓の手影、雲井の胴に光さし、艶《つや》が添って、名誉が籠《こ》めた心の花に、調《しらべ》の緒の色、颯《さっ》と燃え、ヤオ、と一つ声が懸《かか》る。
「あっ、」
とばかり、屹《きっ》と見据えた――能楽界の鶴なりしを、雲隠れつ、と惜《おし》まれた――恩地喜多八、饂飩屋の床几《しょうぎ》から、衝《つ》と片足を土間に落して、
「雪叟が鼓を打つ! 鼓を打つ!」と身を揉《も》んだ、胸を切《せ》めて、慌《あわただ》しく取って蔽《おお》うた、手拭に、かっと血を吐いたが、かなぐり棄てると、右手《めて》を掴《つか》んで、按摩の手をしっかと取った。
「祟《たた》らば、祟れ、さあ、按摩。湊屋の門《かど》まで来い。もう一度、若旦那が聞かしてやろう。」
と、引立《ひった》てて、ずいと出た。
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「(源三郎)……かくて竜宮に至りて宮中を見れば、その高さ三十丈の玉塔に、かの玉をこめ置《おき》、香花《こうげ》を備え、守護神は八竜|並居《なみい》たり、その外悪魚|鰐《わに》の口、遁《のが》れがたしや我《わが》命、さすが恩愛の故郷《ふるさと》のかたぞ恋しき、あの浪のあなたにぞ……」
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その時、漲《みなぎ》る心の張《はり》に、島田の元結《もとゆい》ふッつと切れ、肩に崩るる緑の黒髪。水に乱れて、灯に揺《ゆら》めき、畳の海は裳《もすそ》に澄んで、塵《ちり》も留《とど》めぬ舞振《まいぶり》かな。
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「(源三郎)……我子《わがこ》は有《あ》らん、父大臣もおわすらむ……」
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と声が幽《かす》んで、源三郎の地《じ》謡う節が、フト途絶えようとした時であった。
この湊屋の門口で、爽《さわやか》に調子を合わした。……その声、白き虹《にじ》のごとく、衝《つ》と来て、お三重の姿に射《さ》した。
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「(喜多八)……さるにてもこのままに別れ果《はて》なんかなしさよと、涙ぐみて立ちしが……」
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「やあ、大事な処、倒れるな。」
と源三郎すっと座を立ち、よろめく三重の背《せな》を支えた、老《おい》の腕《かいな》に女浪《めなみ》の袖、この後見の大磐石に、みるの緑の黒髪かけて、颯《さっ》と翳《かざ》すや舞扇は、銀地に、その、雲も恋人の影も立添う、光を放って、灯《ともしび》を白《しら》めて舞うのである。
舞いも舞うた、謡いも謡う。はた雪叟が自得の秘曲に、桑名の海も、トトと大鼓《おおかわ》の拍子を添え、川浪近くタタと鳴って、太鼓の響《ひびき》に汀《みぎわ》を打てば、多度山《たどさん》の霜の頂、月の御在所ヶ|嶽《たけ》の影、鎌ヶ嶽、冠《かむり》ヶ嶽も冠着て、客座に並ぶ気勢《けはい》あり。
小夜《さよ》更けぬ。町|凍《い》てぬ。どことしもなく虚空《おおぞら》に笛の聞えた時、恩地喜多八はただ一人、湊屋の軒の蔭に、姿|蒼《あお》く、影を濃く立って謡うと、月が棟高く廂《ひさし》を照らして、渠《かれ》の面《おもて》に、扇のような光を投げた。舞の扇と、うら表に、そこでぴたりと合うのである。
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「(喜多八)……また思切って手を合せ、南無《なむ》や志渡寺《しどじ》の観音|薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]《さった》の力をあわせてたびたまえとて、大悲の利剣を額にあて、竜宮に飛び入れば、左右へはっとぞ退《の》いたりける、」
[#ここで字下げ終わり]
と謡い澄ましつつ、
「背《せな》を貸せ、宗山。」と言うとともに、恩地喜多八は疲れた状《さま》して、先刻《さっき》からその裾に、大きく何やら踞《うずく》まった、形のない、ものの影を、腰掛くるよう、取って引敷《ひっし》くがごとくにした。
路一筋白くして、掛行燈《かけあんどん》の更けたかなたこなた、杖を支《つ》いた按摩も交って、ちらちらと人立ちする。
[#地から1字上げ]明治四十三(一九一〇)年一月
底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
1942(昭和17)年7月刊行開始
※底本で句点が抜けている箇所は親本を参照して補いました。
※誤植を疑った箇所はちくま日本文学全集を参照しました。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2002年1月9日公開
2005年9月25日修正
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