襟の処で、塗盆をくるりと廻す。
「飛んだ合せかがみだね、人死が出来て堪《たま》るものか。第一、芸妓屋《げいしゃや》の前へは、うっかり立てねえ。」
「なぜえ。」
「悪くすると敵《かたき》に出会《でっくわ》す。」と投首《なげくび》する。
「あれ、芸が身を助けると言う、……お師匠さん、あんた、芸妓《げいこ》ゆえの、お身の上かえ。……ほんにな、仇《かたき》だすな。」
「違った! 芸者の方で、私が敵さ。」
「あれ、のけのけと、あんな憎いこと言いなさんす。」と言う処へ、月は片明りの向う側。狭い町の、ものの気勢《けはい》にも暗い軒下を、からころ、からころ、駒下駄《こまげた》の音が、土間に浸込《しみこ》むように響いて来る。……と直ぐその足許《あしもと》を潜《くぐ》るように、按摩の笛が寂しく聞える。
 門附は屹《きっ》と見た。
「噂をすれば、芸妓《げいこ》はんが通りまっせ。あんた、見たいなら障子を開けやす……そのかわり、敵打たりょうと思うてな。」
「ああ、いつでも打たれてやら。ちょッ、可厭《いや》に煩《うるさ》く笛を吹くない。」
 かたりと門《かど》の戸を外から開ける。
「ええ、吃驚《びっくり》すら。」
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