、可哀想《かわいそう》だ、と言ってくんねえ。……そうかと言って、こう張っちゃ、身も皮も石になって固《かたま》りそうな、背《せなか》が詰《つま》って胸は裂ける……揉んでもらわなくては遣切《やりき》れない。遣れ、構わない。」
 と激しい声して、片膝を屹《きっ》と立て、
「殺す気で蒐《かか》れ。こっちは覚悟だ、さあ。ときに女房《おかみ》さん、袖摺《そです》り合うのも他生《たしょう》の縁ッさ。旅空掛けてこうしたお世話を受けるのも前《さき》の世の何かだろう、何んだか、おなごりが惜《おし》いんです。掴殺《つかみころ》されりゃそれきりだ、も一つ憚《はばか》りだがついでおくれ、別れの杯になろうも知れん。」
 と雫《しずく》を切って、ついと出すと、他愛なさもあんまりな、目の色の変りよう、眦《まなじり》も屹《きっ》となったれば、女房は気を打たれ、黙然《だんまり》でただ目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る。
「さあ按摩さん。」
「ええ、」
「女房《おかみ》さん酌《つ》いどくれよ!」
「はあ、」と酌をする手がちと震えた。
 この茶碗を、一息に仰ぎ干すと、按摩が手を掛けたのと一緒であった。
 がたがたと身震いしたが、面《おもて》は幸《さいわい》に紅潮して、
「ああ、腸《はらわた》へ沁透《しみとお》る!」
「何かその、何事か存じませぬが、按摩は大丈夫でござります。」と、これもおどつく。
「まず、」
 と突張《つッぱ》った手をぐたりと緩めて、
「生命《いのち》に別条は無さそうだ、しかし、しかし応《こた》える。」
 とがっくり俯向《うつむ》いたのが、ふらふらした。
「月は寒し、炎のようなその指が、火水となって骨に響く。胸は冷い、耳は熱い。肉《み》は燃える、血は冷える。あっ、」と言って、両手を落した。
 吃驚《びっくり》して按摩が手を引く、その嘴《くちばし》や鮹《たこ》に似たり。
 兄哥《あにい》は、しっかり起直って、
「いや、手をやすめず遣ってくれ、あわれと思って静《しずか》に……よしんば徐《そっ》と揉まれた処で、私は五体が砕ける思いだ。
 その思いをするのが可厭《いや》さに、いろいろに悩んだんだが、避《よ》ければ摺着《すりつ》く、過ぎれば引張《ひっぱ》る、逃げれば追う。形が無ければ声がする……ピイピイ笛は攻太鼓《せめだいこ》だ。こうひしひしと寄着《よッつ》かれちゃ、弱いものには我慢が出来ない。淵《ふち》に臨んで、崕《がけ》の上に瞰下《みお》ろして踏留《ふみとど》まる胆玉《きもだま》のないものは、いっその思い、真逆《まっさかさま》に飛込みます。破れかぶれよ、按摩さん、従兄弟《いとこ》再従兄弟《はとこ》か、伯父甥《おじおい》か、親類なら、さあ、敵《かたき》を取れ。私はね、……お仲間の按摩を一人殺しているんだ。」

       十二

「今からちょうど三年前。……その年は、この月から一月|後《おくれ》の師走《しわす》の末に、名古屋へ用があって来た。ついでと言っては悪いけれど、稼《かせぎ》の繰廻しがどうにか附いて、参宮が出来るというのも、お伊勢様の思召《おぼしめし》、冥加《みょうが》のほど難有《ありがた》い。ゆっくり古市《ふるいち》に逗留《とうりゅう》して、それこそついでに、……浅熊山《あさまやま》の雲も見よう、鼓ヶ|嶽《たけ》の調《しらべ》も聞こう。二見《ふたみ》じゃ初日を拝んで、堺橋から、池の浦、沖の島で空が別れる、上郡《かみごおり》から志摩へ入って、日和山《ひよりやま》を見物する。……海が凪《な》いだら船を出して、伊良子《いらこ》ヶ崎の海鼠《なまこ》で飲もう、何でも五日六日は逗留というつもりで。……山田では尾上町の藤屋へ泊った。驚くべからず――まさかその時は私だって、浴衣に袷《あわせ》じゃ居やしない。
 着換えに紋付《もんつき》の一枚も持った、縞《しま》で襲衣《かさね》の若旦那さ。……ま、こう、雲助が傾城買《けいせいがい》の昔を語る……負惜《まけおし》みを言うのじゃないよ。何も自分の働きでそうした訳じゃないのだから。――聞きねえ、親なり、叔父なり、師匠なり、恩人なりという、……私が稼業じゃ江戸で一番、日本中の家元の大黒柱と云う、少兀《すこはげ》の苦い面《つら》した阿父《おやじ》がある。
 いや、その顔色《がんしょく》に似合わない、気さくに巫山戯《ふざけ》た江戸児《えどッこ》でね。行年《ぎょうねん》その時六十歳を、三つと刻んだはおかしいが、数え年のサバを算《よ》んで、私が代理に宿帳をつける時は、天地人とか何んとか言って、禅《ぜん》の問答をするように、指を三本、ひょいと出してギロリと睨《にら》む……五十七歳とかけと云うのさ。可《い》いかね、その気だもの……旅籠屋の女中が出てお給仕をする前では、阿父《おとっ》さんが大の禁句さ。……与一兵衛じゃ
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