。……当家《ここ》の味淋蒸、それが好《よ》かろう。」
 と小父者《おじご》納得した顔して頷《うなず》く。
「では、蛤でめしあがりますか。」
「何?」と、わざとらしく[#「わざとらしく」は底本では「わざとしらく」]耳を出す。
「あのな、蛤であがりますか。」
「いや、箸《はし》で食いやしょう、はははは。」
 と独《ひとり》で笑って、懐中から膝栗毛の五編を一冊、ポンと出して、
「難有《ありがた》い。」と額を叩く。
 女中も思わず噴飯《ふきだ》して、
「あれ、あなたは弥次郎兵衛様でございますな。」
「その通り。……この度の参宮には、都合あって五二館と云うのへ泊ったが、内宮様《ないぐうさま》へ参る途中、古市《ふるいち》の旅籠屋、藤屋の前を通った時は、前度いかい世話になった気で、薄暗いまで奥深いあの店頭《みせさき》に、真鍮《しんちゅう》の獅噛火鉢《しかみひばち》がぴかぴかとあるのを見て、略儀ながら、車の上から、帽子を脱いでお辞儀をして来た。が、町が狭いので、向う側の茶店の新姐《しんぞ》に、この小兀《すこはげ》を見せるのが辛かったよ。」
 と燈《あかり》に向けて、てらりと光らす。
「ほほ、ほほ。」
「あはは。」
 で捻平も打笑うと、……この機会に誘われたか、――先刻《さっき》二人が着いた頃には、三味線太鼓で、トトン、ジャカジャカじゃじゃじゃんと沸返るばかりだった――ちょうど八ツ橋形に歩行《あゆみ》板が架《かか》って、土間を隔てた隣の座敷に、およそ十四五人の同勢で、女交りに騒いだのが、今しがた按摩が影を見せた時分から、大河《おおかわ》の汐《しお》に引かれたらしく、ひとしきり人気勢《ひとけはい》が、遠くへ裾拡がりに茫《ぼう》と退《の》いて、寂《しん》とした。ただだだっ広い中を、猿が鳴きながら走廻るように、キャキャとする雛妓《おしゃく》の甲走《かんばし》った声が聞えて、重く、ずっしりと、覆《おっ》かぶさる風に、何を話すともなく多人数《たにんず》の物音のしていたのが、この時、洞穴《ほらあな》から風が抜けたように哄《どっ》と動揺《どよ》めく。
 女中も笑い引きに、すっと立つ。
「いや、この方は陰々としている。」
「その方が無事で可いの。」
 と捻平は火桶の上へ脊くぐまって、そこへ投出した膝栗毛を差覗《さしのぞ》き、
「しかし思いつきじゃ、私《わし》はどうもこの寝つきが悪いで、今夜は一つ枕許《まくらもと》の行燈《あんどん》で読んでみましょう。」
「止《よ》しなさい、これを読むと胸が切《せま》って、なお目が冴えて寝られなくなります。」
「何を言わっしゃる、当事《あてごと》もない、膝栗毛を見て泣くものがあろうかい。私《わし》が事を言わっしゃる、其許《そこ》がよっぽど捻平じゃ。」
 と言う処へ、以前の年増に、小女《こおんな》がついて出て、膳と銚子を揃えて運んだ。
「蛤は直《じ》きに出来ます。」
「可《よし》、可。」
「何よりも酒の事。」
 捻平も、猪口《ちょこ》を急ぐ。
「さて汝《てめえ》にも一つ遣ろう。燗《かん》の可い処を一杯遣らっし。」と、弥次郎兵衛、酒飲みの癖で、ちとぶるぶるする手に一杯傾けた猪口《ちょこ》を、膳の外へ、その膝栗毛の本の傍《わき》へ、畳の上にちゃんと置いて、
「姉さん、一つ酌《つ》いでやってくれ。」
 と真顔で言う。
 小女が、きょとんとした顔を見ると、捻平に追っかけの酌をしていた年増が見向いて、
「喜野《きの》、お酌ぎ……その旦那はな、弥次郎兵衛様じゃで、喜多八さんにお杯を上げなさるんや。」
 と早や心得たものである。

       八

 小父者《おじご》はなぜか調子を沈めて、
「ああ、よく言った。俺《おれ》を弥次郎兵衛は難有《ありがた》い。居心《いごころ》は可《よし》、酒は可。これで喜多八さえ一所だったら、膝栗毛を正《しょう》のもので、太平の民となる処を、さて、杯をさしたばかりで、こう酌《つ》いだ酒へ、蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》のちらちらと映る処は、どうやら餓鬼に手向《たむ》けたようだ。あのまた馬鹿野郎はどうしている――」と膝に手を支《つ》き、畳の杯を凝《じっ》と見て、陰気な顔する。
 捻平も、ふと、この時横を向いて腕組した。
「旦那、その喜多八さんを何んでお連れなさりませんね。」
 と愛嬌造《あいきょうづく》って女中は笑う。弥次郎|寂《さみ》しく打笑み、
「むむ、そりゃ何よ、その本の本文にある通り、伊勢の山田ではぐれた奴さ。いい年をして娑婆気《しゃばっけ》な、酒も飲めば巫山戯《ふざけ》もするが、世の中は道中同然。暖いにつけ、寒いにつけ、杖《つえ》柱とも思う同伴《つれ》の若いものに別れると、六十の迷児《まいご》になって、もし、この辺に棚からぶら下がったような宿屋はござりませんかと、賑《にぎや》かな町の中を独りとぼとぼと尋ね飽倦《
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