」
と干した猪口《ちょく》で門《かど》を指して、
「二三町行った処で、左側の、屋根の大きそうな家へ着けたのが、蒼《あお》く月明りに見えたがね、……あすこは何かい、旅籠屋《はたごや》ですか。」
「湊屋《みなとや》でございまさ、なあ、」と女房が、釜の前から亭主を見向く。
「湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃ、まああすこ一軒でござりますよ。古い家じゃが名代《なだい》で。前《せん》には大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな、部屋々々も昔風そのままな家《うち》じゃに、奥座敷の欄干《てすり》の外が、海と一所の、大《いか》い揖斐《いび》の川口《かわぐち》じゃ。白帆の船も通りますわ。鱸《すずき》は刎《は》ねる、鯔《ぼら》は飛ぶ。とんと類のない趣《おもむき》のある家じゃ。ところが、時々崖裏の石垣から、獺《かわうそ》が這込《はいこ》んで、板廊下や厠《かわや》に点《つ》いた燈《あかり》を消して、悪戯《いたずら》をするげに言います。が、別に可恐《おそろし》い化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢叩《はちたた》きをして見せる。……時雨《しぐ》れた夜さりは、天保銭《てんぽうせん》一つ使賃で、豆腐を買いに行《ゆ》くと言う。それも旅の衆の愛嬌《あいきょう》じゃ言うて、豪《えら》い評判の好《い》い旅籠屋ですがな、……お前様、この土地はまだ何も知りなさらんかい。」
「あい、昨夜《ゆうべ》初めてこっちへ流込んで来たばかりさ。一向方角も何も分らない。月夜も闇《やみ》の烏さね。」
と俯向《うつむ》いて、一口。
「どれ延びない内、底を一つ温めよう、遣《や》ったり! ほっ、」
と言って、目を擦《こす》って面《おもて》を背けた。
「利く、利く。……恐しい利く唐辛子だ。こう、親方の前だがね、ついこないだもこの手を食ったよ、料簡《りょうけん》が悪いのさ。何、上方筋の唐辛子だ、鬼灯《ほおづき》の皮が精々だろう。利くものか、と高を括《くく》って、お銭《あし》は要らない薬味なり、どしこと丼へぶちまけて、松坂で飛上った。……また遣ったさ、色気は無えね、涙と涎《よだれ》が一時《いっとき》だ。」と手の甲で引擦《ひっこす》る。
女房が銚子のかわり目を、ト掌《てのひら》で燗《かん》を当った。
「お師匠さん、あんたは東の方《かた》ですなあ。」
「そうさ、生《うまれ》は東だが、身上《しんしょう》は北山さね。」と言う時、徳利の底を振って、垂々《たらたら》と猪口《ちょく》へしたむ。
「で、お前様、湊屋へ泊んなさろうと言うのかな。」
それだ、と門口で断らりょう、と亭主はその段含ませたそうな気の可《い》い顔色《かおつき》。
「御串戯《ごじょうだん》もんですぜ、泊りは木賃《きちん》と極《きま》っていまさ。茣蓙《ござ》と笠《かさ》と草鞋《わらじ》が留守居。壁の破れた処から、鼠が首を長くして、私の帰るのを待っている。四五日はこの桑名へ御厄介になろうと思う。……上旅籠《じょうはたご》の湊屋で泊めてくれそうな御人品なら、御当家へ、一夜の御無心申したいね、どんなもんです、女房《おかみ》さん。」
「こんなでよくば、泊めますわ。」
と身軽に銚子を運んで寄る。と亭主驚いた眉を動かし、
「滅相な。」と帳場を背負《しょ》って、立塞《たちふさ》がる体《てい》に腰を掛けた。いや、この時まで、紺の鯉口《こいぐち》に手首を縮《すく》めて、案山子《かかし》のごとく立ったりける。
「はははは、お言葉には及びません、饂飩屋さんで泊めるものは、醤油《おしたじ》の雨宿りか、鰹節《かつおぶし》の行者だろう。」
と呵々《からから》と一人で笑った。
「お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。」と女房は市松の畳の端から、薄く腰を掛込んで、土間を切って、差向いに銚子を取った。
「飛んでもない事、お忙しいに。」
「いえな、内じゃ芸妓屋《げいこや》さんへ出前ばかりが主《おも》ですから、ごらんの通りゆっくりじゃえな。ほんにお師匠さん佳《い》いお声ですな。なあ、良人《あんた》。」と、横顔で亭主を流眄《ながしめ》。
「さよじゃ。」
とばかりで、煙草《たばこ》を、ぱっぱっ。
「なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました。」
五
「そう讃《ほ》められちゃお座が醒《さ》める、酔も醒めそうで遣瀬《やるせ》がない。たかが大道芸人さ。」
と兄哥《あにい》は照れた風で腕組みした。
「私がお世辞を言うものですかな、真実《まったく》ですえ。あの、その、なあ、悚然《ぞっ》とするような、恍惚《うっとり》するような、緊《し》めたような、投げたような、緩めたような、まあ、何《な》んと言うて可《よ》かろうやら。海の中に柳があったら、お月様の影の中へ、身を投げて死にたいような、……何んと
前へ
次へ
全24ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング