が一さし頼む。私《わし》も久《ひさし》ぶりで可懐《なつか》しい、御身《おんみ》の姿で、若師匠の御意を得よう。」
 と言《ことば》の中《うち》に、膝で解く、その風呂敷の中を見よ。土佐の名手が画《えが》いたような、紅《あか》い調《しらべ》は立田川《たつたがわ》、月の裏皮、表皮。玉の砧《きぬた》を、打つや、うつつに、天人も聞けかしとて、雲井、と銘《めい》ある秘蔵の塗胴《ぬりどう》。老《おい》の手捌《てさば》き美しく、錦《にしき》に梭《ひ》を、投ぐるよう、さらさらと緒を緊《し》めて、火鉢の火に高く翳《かざ》す、と……呼吸《いき》をのんで驚いたように見ていたお千は、思わず、はっと両手を支《つ》いた。
 芸の威厳は争われず、この捻平を誰とかする、七十八歳の翁《おきな》、辺見秀之進。近頃孫に代《よ》を譲って、雪叟《せっそう》とて隠居した、小鼓取って、本朝無双の名人である。
 いざや、小父者《おじご》は能役者、当流第一の老手、恩地源三郎、すなわちこれ。
 この二人は、侯爵《こうしゃく》津の守《かみ》が、参宮の、仮の館《やかた》に催された、一調の番組を勤め済まして、あとを膝栗毛で帰る途中であった。

       二十一

 さて、饂飩屋《うどんや》では門附の兄哥《あにい》が語り次ぐ。
「いや、それから、いろいろ勿体つける所作があって、やがて大坊主が謡出《うたいだ》した。
 聞くと、どうして、思ったより出来ている、按摩|鍼《はり》の芸ではない。……戸外《おもて》をどッどと吹く風の中へ、この声を打撒《ぶちま》けたら、あのピイピイ笛ぐらいに纏《まと》まろうというもんです。成程、随分|夥間《なかま》には、此奴《こいつ》に(的等。)扱いにされようというのが少くない。
 が、私に取っちゃ小敵《しょうてき》だった。けれども芸は大事です、侮《あなど》るまい、と気を緊《し》めて、そこで、膝を。」
 と坐直《すわりなお》ると、肩の按摩が上へ浮いて、門附の衣紋《えもん》が緊《しま》る。
「……この膝を丁《ちょう》と叩いて、黙って二ツ三ツ拍子を取ると、この拍子が尋常《ただ》んじゃない。……親なり師匠の叔父きの膝に、小児《こども》の時から、抱かれて習った相伝だ。対手《あいて》の節の隙間を切って、伸縮《のびちぢ》みを緊《し》めつ、緩めつ、声の重味を刎上《はねあ》げて、咽喉《のど》の呼吸を突崩す。寸法を知らず、
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