さ》んだ懐紙に捻《ひね》って、私に持たせなすったのを、盆に乗せて、戸を開けると、もう一二|間《けん》行きなさいます。二人の間にある月をな、影で繋《つな》いで、ちゃっと行って、
(是喃《こいし》。)と呼んで、出した盆を、振向いてお取りでした。私や、思わずその手に縋《すが》って、涙がひとりでに出ましたえ。男で居ながら、こんなにも上手な方があるものを、切《せ》めてその指一本でも、私の身体《からだ》についたらばと、つい、おろおろと泣いたのです。
 頬被《ほおかむり》をしていなすった。あのその、私の手を取ったまま――黙って、少し脇の方へ退《の》いた処で、(何を泣く、)って優しい声で、その門附が聞いてくれます。もう恥も何も忘れてな、その、あの、どうしても三味線の覚えられぬ事を話しました。」

       二十

「よく聞いて、しばらく熟《じっ》と顔を見ていなさいました。
(芸事の出来るように、神へ願懸《がんがけ》をすると云って、夜の明けぬ内、外へ出ろ。鼓ヶ嶽の裾にある、雑樹林の中へ来い。三日とも思うけれど、主人には、七日と頼んで。すぐ、今夜の明方から。……分ったか。若い女の途中が危《あぶな》い、この入口まで来て待ってやる、化《ばか》されると思うな、夢ではない。……)
 とお言いのなり、三味線を胸に附着《くッつ》けて、フイと暗がりへ附着いて、黒塀を去《い》きなさいます。……
 その事は言わぬけれど、明方の三時から、夜の白むまで垢離《こり》取って、願懸けすると頼んだら、姉さんは、喜んで、承知してくれました。
 殺されたら死ぬ気でな、――大恩のある御主人の、この格子戸も見納めか、と思うようで、軒下へ出て振返って、門《かど》を視《なが》めて、立っているとな。
(おいで、)
 と云って、突然《いきなり》、背後《うしろ》から手を取りなすった、門附のそのお方。
 私はな、よう覚悟はしていたが、天狗様に攫《さら》われるかと思いましたえ。
 あとは夢やら現《うつつ》やら。明方内へ帰ってからも、その後《あと》は二日も三日もただ茫《ぼう》としておりましたの。……鼓ヶ嶽の松風と、五十鈴川の流《ながれ》の音と聞えます、雑木の森の暗い中で、その方に教わりました。……舞も、あの、さす手も、ひく手も、ただ背後《うしろ》から背中を抱いて下さいますと、私の身体《からだ》が、舞いました。それだけより存じません。

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