エション》前の夜の隈《くま》に、四五台|朦朧《もうろう》と寂しく並んだ車の中から、車夫が一人、腕組みをして、のっそり出る。
 これを聞くと弥次郎兵衛、口を捻《ね》じて片頬笑《かたほえ》み、
「有難《ありがて》え、図星という処へ出て来たぜ。が、同じ事を、これ、(旦那衆戻り馬乗らんせんか、)となぜ言わぬ。」
「へい、」と言ったが、車夫は変哲もない顔色《がんしょく》で、そのまま棒立。

       二

 小父者《おじご》は外套の袖をふらふらと、酔ったような風附《ふうつき》で、
「遣《や》れよ、さあ、(戻馬乗らんせんか、)と、後生《ごしょう》だから一つ気取ってくれ。」
「へい、(戻馬乗らせんか、)と言うでございますかね、戻馬乗らんせんか。」
 と早口で車夫は実体《じってい》。
「はははは、法性寺入道前《ほうしょうじのにゅうどうさき》の関白《かんぱく》太政大臣《だじょうだいじん》と言ったら腹を立ちやった、法性寺入道前の関白太政大臣様と来ている。」とまたアハハと笑う。
「さあ、もし召して下さい。」
 と話は極《きま》った筈《はず》にして、委細構わず、車夫は取着《とッつ》いて梶棒《かじぼう》を差向ける。
 小父者、目を据えてわざと見て、
「ヤレコリャ車なんぞ、よオしよし。」
「いや、よしではない。」
 とそこに一人つくねんと、添竹《そえだけ》に、その枯菊《かれぎく》の縋《すが》った、霜の翁《おきな》は、旅のあわれを、月空に知った姿で、
「早く車を雇わっしゃれ。手荷物はあり、勝手知れぬ町の中を、何を当《あて》にぶらつこうで。」と口叱言《くちこごと》で半ば呟《つぶや》く。
「いや、まず一つ、(よヲしよし、)と切出さんと、本文に合わぬてさ。処へ喜多八が口を出して、(しょうろく四銭《しもん》で乗るべいか。)馬士《うまかた》が、(そんなら、ようせよせ。)と言いやす、馬がヒインヒインと嘶《いば》う。」
「若いもの、その人に構うまい。車を早く。川口の湊屋《みなとや》と言う旅籠屋《はたごや》へ行《ゆ》くのじゃ。」
「ええ、二台でござりますね。」
「何んでも構わぬ、私《わし》は急ぐに……」と後向《うしろむ》きに掴《つか》まって、乗った雪駄を爪立《つまだ》てながら、蹴込《けこ》みへ入れた革鞄を跨《また》ぎ、首に掛けた風呂敷包みを外ずしもしないで揺《ゆす》っておく。
「一蓮託生《いちれんたくしょう
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