も言いようのない心持になったのですえ。」
 と、脊筋を曲《くね》って、肩を入れる。
「お方《かた》、お方。」
 と急込《せきこ》んで、訳もない事に不機嫌な御亭《ごてい》が呼ばわる。
「何じゃいし。」と振向くと、……亭主いつの間にか、神棚の下《もと》に、斜《しゃ》と構えて、帳面を引繰《ひっく》って、苦く睨《にら》み、
「升屋《ますや》が懸《かけ》はまだ寄越さんかい。」
 と算盤《そろばん》を、ぱちりぱちり。
「今時どうしたえ、三十日《みそか》でもありもせんに。……お師匠さん。」
「師匠じゃないわ、升屋が懸じゃい。」
「そないに急に気になるなら、良人《あんた》、ちゃと行って取って来《き》い。」
 と下唇の刎調子《はねぢょうし》。亭主ぎゃふんと参った体《てい》で、
「二進が一進、二進が一進、二一《にいち》天作の五《ご》、五一三六七八九《ぐいちさぶろくななやあここの》。」と、饂飩の帳の伸縮《のびちぢ》みは、加減《さしひき》だけで済むものを、醤油《したじ》に水を割算段。
 と釜の湯気の白けた処へ、星の凍《い》てそうな按摩《あんま》の笛。月天心《つきてんしん》の冬の町に、あたかもこれ凩《こがらし》を吹込む声す。
 門附の兄哥《あにい》は、ふと痩《や》せた肩を抱いて、
「ああ、霜に響く。」……と言った声が、物語を読むように、朗《ほがらか》に冴《さ》えて、且つ、鋭く聞えた。
「按摩が通る……女房《おかみ》さん、」
「ええ、笛を吹いてですな。」
「畜生、怪《け》しからず身に染みる、堪《たま》らなく寒いものだ。」
 と割膝に跪坐《かしこま》って、飲みさしの茶の冷えたのを、茶碗に傾け、ざぶりと土間へ、
「一ツこいつへ注《つ》いでおくんな、その方がお前さんも手数が要らない。」
「何んの、私はちっとも構うことないのですえ。」
「いや、御深切は難有《ありがた》いが、薬罐《やかん》の底へ消炭《けしずみ》で、湧《わ》くあとから醒《さ》める処へ、氷で咽喉《のど》を抉《えぐ》られそうな、あのピイピイを聞かされちゃ、身体《からだ》にひびっ裂《たけ》がはいりそうだ。……持って来な。」
 と手を振るばかりに、一息にぐっと呷《あお》った。
「あれ、お見事。」
 と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「まあな、だけれどな、無理酒おしいなえ。沢山《たんと》、あの、心配する方があるのですや
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