徳利の底を振って、垂々《たらたら》と猪口《ちょく》へしたむ。
「で、お前様、湊屋へ泊んなさろうと言うのかな。」
それだ、と門口で断らりょう、と亭主はその段含ませたそうな気の可《い》い顔色《かおつき》。
「御串戯《ごじょうだん》もんですぜ、泊りは木賃《きちん》と極《きま》っていまさ。茣蓙《ござ》と笠《かさ》と草鞋《わらじ》が留守居。壁の破れた処から、鼠が首を長くして、私の帰るのを待っている。四五日はこの桑名へ御厄介になろうと思う。……上旅籠《じょうはたご》の湊屋で泊めてくれそうな御人品なら、御当家へ、一夜の御無心申したいね、どんなもんです、女房《おかみ》さん。」
「こんなでよくば、泊めますわ。」
と身軽に銚子を運んで寄る。と亭主驚いた眉を動かし、
「滅相な。」と帳場を背負《しょ》って、立塞《たちふさ》がる体《てい》に腰を掛けた。いや、この時まで、紺の鯉口《こいぐち》に手首を縮《すく》めて、案山子《かかし》のごとく立ったりける。
「はははは、お言葉には及びません、饂飩屋さんで泊めるものは、醤油《おしたじ》の雨宿りか、鰹節《かつおぶし》の行者だろう。」
と呵々《からから》と一人で笑った。
「お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。」と女房は市松の畳の端から、薄く腰を掛込んで、土間を切って、差向いに銚子を取った。
「飛んでもない事、お忙しいに。」
「いえな、内じゃ芸妓屋《げいこや》さんへ出前ばかりが主《おも》ですから、ごらんの通りゆっくりじゃえな。ほんにお師匠さん佳《い》いお声ですな。なあ、良人《あんた》。」と、横顔で亭主を流眄《ながしめ》。
「さよじゃ。」
とばかりで、煙草《たばこ》を、ぱっぱっ。
「なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました。」
五
「そう讃《ほ》められちゃお座が醒《さ》める、酔も醒めそうで遣瀬《やるせ》がない。たかが大道芸人さ。」
と兄哥《あにい》は照れた風で腕組みした。
「私がお世辞を言うものですかな、真実《まったく》ですえ。あの、その、なあ、悚然《ぞっ》とするような、恍惚《うっとり》するような、緊《し》めたような、投げたような、緩めたような、まあ、何《な》んと言うて可《よ》かろうやら。海の中に柳があったら、お月様の影の中へ、身を投げて死にたいような、……何んと
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