ゃんのようなのは可愛らしいのである、吉公のようなのはうつくしいのである、けれどもそれは紅雀がうつくしいのと、目白が可愛らしいのとちっとも違いはせぬので、うつくしい、可愛らしい。うつくしい、可愛らしい。

       七

 また憎らしいのがある、腹立たしいのも他《ほか》にあるけれども、それも一《ある》場合に猿が憎らしかったり、鳥が腹立たしかったりするのとかわりは無いので。詮ずれば皆おかしいばかり、やっぱり噴飯材料《ふきだすたね》なんで、別に取留めたことがありはしなかった。
 で、つまり情を動かされて、悲《かなし》む、愁《うれ》うる、楽《たのし》む、喜ぶなどいうことは、時に因り場合においての母様《おっかさん》ばかりなので。余所《よそ》のものはどうであろうとちっとも心には懸けないように日ましにそうなって来た。しかしこういう心になるまでには、私を教えるために、毎日、毎晩、見る者、聞くものについて、母様がどんなに苦労をなすって、丁寧に深切に、飽かないで、熱心に、懇《ねんごろ》に噛《か》んで含めるようになすったかも知れはしない。だもの、どうして学校の先生をはじめ、余所のものが少々ぐらいのことで
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