雨上りだったから、堪《たま》りはしない。石の上へ辷《すべ》って、ずるずると川へ落ちた。わっといった顔へ一波《ひとなみ》かぶって、呼吸《いき》をひいて仰向《あおむ》けに沈んだから、面くらって立とうとすると、また倒れて、眼がくらんで、アッとまたいきをひいて、苦しいので手をもがいて身体《からだ》を動かすとただどぶんどぶんと沈んで行《ゆ》く。情《なさけ》ないと思ったら、内に母様の坐っていらっしゃる姿が見えたので、また勢《いきおい》づいたけれど、やっぱりどぶんどぶんと沈むから、どうするのかなと落着いて考えたように思う。それから何のことだろうと考えたようにも思われる。今に眼が覚めるのであろうと思ったようでもある、何だかぼんやりしたが俄《にわか》に水ん中だと思って叫ぼうとすると水をのんだ。もう駄目だ。
 もういかんとあきらめるトタンに胸が痛かった、それから悠々と水を吸った、するとうっとりして何だか分らなくなったと思うと、※[#「火+發」、164−5]《ぱっ》と糸のような真赤《まっか》な光線がさして、一幅《ひとはば》あかるくなったなかにこの身体《からだ》が包まれたので、ほっといきをつくと、山の端《は》が遠く見えて、私のからだは地《つち》を放れて、その頂より上の処に冷いものに抱えられていたようで、大きなうつくしい目が、濡髪をかぶって私の頬ん処へくっついたから、ただ縋《すが》り着いてじっとして眼を眠った覚《おぼえ》がある。夢ではない。
 やっぱり片袖なかったもの。そして川へ落《おっ》こちて溺れそうだったのを救われたんだって、母様のお膝に抱かれていて、その晩聞いたんだもの。
 だから夢ではない。
 一体助けてくれたのは誰ですッて、母様に問うた。私がものを聞いて、返事に躊躇《ちゅうちょ》をなすったのはこの時ばかりで、また、それは猪だとか、狼だとか、狐だとか、頬白だとか、山雀だとか、鮟鱇だとか、鯖《さば》だとか、蛆《うじ》だとか、毛虫だとか、草だとか、竹だとか、松蕈《まつたけ》だとか、湿地茸《しめじ》だとかおいいでなかったのもこの時ばかりで、そして顔の色をおかえなすったのもこの時ばかりで、それに小さな声でおっしゃったのもこの時ばかりだ。
 そして母様はこうおいいであった。
(廉や、それはね、大きな五色《ごしき》の翼《はね》があって天上に遊んでいるうつくしい姉さんだよ。)

       十一
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