なすったのが、市内衛生会委員、教育談話会幹事、生命保険会社社員、一六会会長、美術奨励会理事、大野喜太郎。
「この方ですか。」
「うう。」といった時ふっくりした鼻のさきがふらふらして、手で、胸にかけた何だか徽章《きしょう》をはじいたあとで、
「分ったかね。」
 こんどはやさしい声でそういったまままた行《ゆ》きそうにする。
「いけません。お払《はらい》でなきゃアあとへお帰んなさい。」とおっしゃった。
 先生妙な顔をしてぼんやり立ってたが少しむきになって、
「ええ、こ、細《こまか》いのがないんじゃから。」
「おつりを差上げましょう。」
 おっかさんは帯のあいだへ手をお入れ遊ばした。

       十

 母様《おっかさん》はうそをおっしゃらない。博士が橋銭をおいて遁《に》げて行《ゆ》くと、しばらくして雨が晴れた。橋も蛇籠も皆《みんな》雨にぬれて、黒くなって、あかるい日中《ひなか》へ出た。榎の枝からは時々はらはらと雫《しずく》が落ちる。中流へ太陽《ひ》がさして、みつめているとまばゆいばかり。
「母様遊びに行《ゆ》こうや。」
 この時|鋏《はさみ》をお取んなすって、
「ああ。」
「ねえ、出かけたって可《い》いの、晴れたんだもの。」
「可いけれど、廉や、お前またあんまりお猿にからかってはなりませんよ。そう可い塩梅《あんばい》にうつくしい羽の生えた姉さんがいつでもいるんじゃあありません。また落っこちようもんなら。」
 ちょいと見向いて、清《すずし》い眼で御覧なすって、莞爾《にっこり》してお俯向《うつむ》きで、せっせと縫っていらっしゃる。
 そう、そう! そうだった。ほら、あの、いま頬《ほ》っぺたを掻いて、むくむく濡れた毛からいきりをたてて日向《ひなた》ぼっこをしている、憎らしいッたらない。
 いまじゃあもう半年も経《た》ったろう。暑さの取着《とッつき》の晩方頃で、いつものように遊びに行って、人が天窓《あたま》を撫《な》でてやったものを、業畜《ごうちく》、悪巫山戯《わるふざけ》をして、キッキッと歯を剥《む》いて、引掻《ひっか》きそうな剣幕をするから、吃驚《びっくり》して飛退《とびの》こうとすると、前足でつかまえた、放さないから力を入れて引張《ひっぱ》り合った奮《はず》みであった。左の袂《たもと》がびりびりと裂けて断《ちぎ》れて取れた、はずみをくって、踏占《ふみし》めた足がちょうど
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