に手をついてのびあがって、ずっと肩まで出すと※[#「さんずい+散」、156−15]《しぶき》がかかって、眼のふちがひやりとして、冷たい風が頬を撫《な》でた。
 その時仮橋ががたがたいって、川面《かわづら》の小糠雨《こぬかあめ》を掬《すく》うように吹き乱すと、流《ながれ》が黒くなって颯《さっ》と出た。といっしょに向岸から橋を渡って来る、洋服を着た男がある。
 橋板がまた、がッたりがッたりいって、次第に近づいて来る、鼠色の洋服で、釦《ぼたん》をはずして、胸を開けて、けばけばしゅう襟飾《えりかざり》を出した、でっぷり紳士で、胸が小さくッて、下腹《したっぱら》の方が図ぬけにはずんでふくれた、脚の短い、靴の大きな、帽子の高い、顔の長い、鼻の赤い、それは寒いからだ。そして大跨《おおまた》に、その逞《たくまし》い靴を片足ずつ、やりちがえにあげちゃあ歩行《ある》いて来る。靴の裏の赤いのがぽっかり、ぽっかりと一ツずつこっちから見えるけれど、自分じゃあ、その爪《つま》さきも分りはしまい。何でもあんなに腹のふくれた人は、臍《へそ》から下、膝から上は見たことがないのだとそういいます。あら! あら! 短服《チョッキ》に靴を穿《は》いたものが転がって来るぜと、思って、じっと見ていると、橋のまんなかあたりへ来て鼻目金《はなめがね》をはずした、※[#「さんずい+散」、157−10]がかかって曇ったと見える。
 で、衣兜《かくし》から手巾《ハンケチ》を出して、拭《ふ》きにかかったが、蝙蝠傘《こうもりがさ》を片手に持っていたから手を空けようとして咽喉《のど》と肩のあいだへ柄を挟んで、うつむいて、珠《たま》を拭《ぬぐ》いかけた。
 これは今までに幾|度《たび》も私見たことのある人で、何でも小児《こども》の時は物見高いから、そら、婆さんが転んだ、花が咲いた、といって五六人人だかりのすることが眼の及ぶ処にあれば、必ず立って見るが、どこに因らず、場所は限らない。すべて五十人以上の人が集会したなかには必ずこの紳士の立交《たちまじ》っていないということはなかった。
 見る時にいつも傍《はた》の人《もの》を誰かしらつかまえて、尻上りの、すました調子で、何かものをいっていなかったことはほとんど無い。それに人から聞いていたことはかつてないので、いつでも自分で聞かせている。が、聞くものがなければ独《ひとり》で、むむ、ふむ
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