であったそうで。今、市《まち》の人が春、夏、秋、冬、遊山に来る、桜山も、桃谷も、あの梅林も、菖蒲《あやめ》の池も皆《みんな》父様《おとっさん》ので、頬白だの、目白だの、山雀《やまがら》だのが、この窓から堤防《どて》の岸や、柳の下《もと》や、蛇籠の上に居るのが見える、その身体《からだ》の色ばかりがそれである、小鳥ではない、ほんとうの可愛らしい、うつくしいのがちょうどこんな工合に朱塗《しゅぬり》の欄干のついた二階の窓から見えたそうで。今日はまだお言いでないが、こういう雨の降って淋《さみ》しい時なぞは、その時分《ころ》のことをいつでもいってお聞かせだ。

       六

 今ではそんな楽しい、うつくしい、花園がないかわり、前に橋銭を受取る笊《ざる》の置いてある、この小さな窓から風がわりな猪だの、希代な蕈《きのこ》だの、不思議な猿だの、まだその他に人の顔をした鳥だの、獣だのが、いくらでも見えるから、ちっとは思出《おもいで》になるといっちゃあ、アノ笑顔をおしなので、私もそう思って見るせいか、人があるいて行《ゆ》く時、片足をあげた処は一本脚の鳥のようでおもしろい。人の笑うのを見ると獣《けだもの》が大きな赤い口をあけたよと思っておもしろい。みいちゃんがものをいうと、おや小鳥が囀《さえず》るかとそう思っておかしいのだ。で、何でも、おもしろくッて、おかしくッて、吹出さずには居られない。
 だけれど今しがたも母様《おっかさん》がおいいの通り、こんないいことを知ってるのは、母様と私ばかりで、どうして、みいちゃんだの、吉公だの、それから学校の女の先生なんぞに教えたって分るものか。
 人に踏まれたり、蹴《け》られたり、後足で砂をかけられたり、苛《いじ》められて責《さいな》まれて、煮湯《にえゆ》を飲ませられて、砂を浴《あび》せられて、鞭《むち》うたれて、朝から晩まで泣通しで、咽喉《のど》がかれて、血を吐いて、消えてしまいそうになってる処を、人に高見で見物されて、おもしろがられて、笑われて、慰《なぐさみ》にされて、嬉しがられて、眼が血走って、髪が動いて、唇が破れた処で、口惜《くや》しい、口惜しい、口惜しい、口惜しい、蓄生め、獣《けだもの》めと始終そう思って、五年も八年も経《た》たなければ、ほんとうに分ることではない、覚えられることではないんだそうで、お亡《なくな》んなすった、父様《おとっさん
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