でもいるんぢやあありません。また落《お》つこちやうもんなら。」
ちよいと見向《みむ》いて、清《すゞし》い眼《め》で御覧《ごらん》なすつて莞爾《につこり》してお俯向《うつむ》きで、せつせと縫《ぬ》つて居《ゐ》らつしやる。
さう、さう! さうであつた。ほら、あの、いま頬《ほ》つぺたを掻《か》いてむく/\濡《ぬ》れた毛《け》からいきりをたてゝ日向《ひなた》ぼつこをして居《ゐ》る、憎《にく》らしいツたらない。
いまじやあもう半年《はんとし》も経《た》つたらう、暑《あつ》さの取着《とつつき》の晩方頃《ばんかたごろ》で、いつものやうに遊《あそ》びに行《い》つて、人《ひと》が天窓《あたま》を撫《な》でゝやつたものを、業畜《がふちく》、悪巫山戯《わるふざけ》をして、キツ/\と歯《は》を剥《む》いて、引掻《ひつか》きさうな権幕《けんまく》をするから、吃驚《びつくり》して飛退《とびの》かうとすると、前足《まへあし》でつかまへた、放《はな》さないから力《ちから》を入《い》れて引張《ひつぱ》り合《あ》つた奮《はづ》みであつた。左《ひだり》の袂《たもと》がびり/\と裂《さけ》てちぎれて取《とれ》たはづみをくつて、踏占《ふみし》めた足《あし》がちやうど雨上《あまあが》りだつたから、堪《たま》りはしない、石《いし》の上《うへ》を辷《すべ》つて、ずる/\と川《かは》へ落《お》ちた。わつといつた顔《かほ》へ一波《ひとなみ》かぶつて、呼吸《いき》をひいて仰向《あをむ》けに沈《しづ》むだから、面《めん》くらつて立《た》たうとするとまた倒《たふ》れて眼《め》がくらむで、アツとまたいきをひいて、苦《くる》しいので手《て》をもがいて身躰《からだ》を動《うご》かすと唯《たゞ》どぶん/\と沈《しづ》むで行《ゆ》く、情《なさけ》ないと思《おも》つたら、内《うち》に母様《おつかさん》の坐《すは》つて居《ゐ》らつしやる姿《すがた》が見《み》えたので、また勢《いきおひ》ついたけれど、やつぱりどぶむ/\と沈《しづ》むから、何《ど》うするのかなと落着《おちつ》いて考《かんが》へたやうに思《おも》ふ。それから何《なん》のことだらうと考《かんが》え[#「え」に「ママ」の注記]たやうにも思《おも》はれる、今《いま》に眼《め》が覚《さ》めるのであらうと思《おも》つたやうでもある、何《なん》だか茫乎《ぼんやり》したが俄《にわか》に水《みづ》ン中《なか》だと思《おも》つて叫《さけ》ばうとすると水《みづ》をのんだ。もう駄目《だめ》だ。
もういかんとあきらめるトタンに胸《むね》が痛《いた》かつた、それから悠々《いういう》と水《みづ》を吸《す》つた、するとうつとりして何《なん》だか分《わか》らなくなつたと思《おも》ふと溌《ぱつ》と糸《いと》のやうな真赤《まつか》な光線《くわうせん》がさして、一巾《ひとはゞ》あかるくなつたなかにこの身躰《からだ》が包《つゝ》まれたので、ほつといきをつくと、山《やま》の端《は》が遠《とほ》く見《み》えて私《わたし》のからだは地《つち》を放《はな》れて其頂《そのいたゞき》より上《うへ》の処《ところ》に冷《つめた》いものに抱《かゝ》へられて居《ゐ》たやうで、大《おほ》きなうつくしい眼《め》が、濡髪《ぬれがみ》をかぶつて私《わたし》の頬《ほゝ》ん処《とこ》へくつゝいたから、唯《たゞ》縋《すが》り着《つ》いてじつと眼《め》を眠《ねむ》つた[「眠つた」に「ママ」の注記]覚《おぼえ》がある。夢《ゆめ》ではない。
やつぱり片袖《かたそで》なかつたもの、そして川《かは》へ落《おつ》こちて溺《おぼ》れさうだつたのを救《すく》はれたんだつて、母様《おつかさん》のお膝《ひざ》に抱《だ》かれて居《ゐ》て、其晩《そのばん》聞《き》いたんだもの。だから夢《ゆめ》ではない。
一躰《いつたい》助《たす》けて呉《く》れたのは誰《だれ》ですッて、母様《おつかさん》に問《と》ふた。私《わたし》がものを聞《き》いて、返事《へんじ》に躊躇《ちうちよ》をなすつたのは此時《このとき》ばかりで、また、それは猪《いぬしゝ》だとか、狼《おほかみ》だとか、狐《きつね》だとか、頬白《ほゝじろ》だとか、山雀《やまがら》だとか、鮟鱇《あんかう》だとか鯖《さば》だとか、蛆《うぢ》だとか、毛虫《けむし》だとか、草《くさ》だとか、竹《たけ》だとか、松茸《まつたけ》だとか、しめぢだとかおいひでなかつたのも此時《このとき》ばかりで、そして顔《かほ》の色《いろ》をおかへなすつたのも此時《このとき》ばかりで、それに小《ちひ》さな声《こゑ》でおつしやつたのも此時《このとき》ばかりだ。
そして母様《おつかさん》はかうおいひであつた。
(廉《れん》や、それはね、大《おほ》きな五色《ごしき》の翼《はね》があつて天上《てんじやう》に遊《あそ》んで居《ゐ》るうつくしい姉《ねえ》さんだよ)

     第十一

(鳥《とり》なの、母様《おつかさん》)とさういつて其時《そのとき》私《わたし》が聴《き》いた。
此《これ》にも母様《おつかさん》は少《すこ》し口籠《くちごも》つておいでゝあつたが、
(鳥《とり》ぢやないよ、翼《はね》の生《は》へた美《うつく》しい姉《ねえ》さんだよ)
何《ど》うしても分《わか》らんかつた。うるさくいつたらしまひにやお前《まへ》には分《わか》らない、とさうおいひであつた、また推返《おしかへ》して聴《き》いたら、やつぱり、
(翼《はね》の生《は》へたうつくしい姉《ねえ》さんだつてば)
それで仕方《しかた》がないからきくのはよして、見《み》やうと思《おも》つた、其《その》うつくしい翼《はね》のはへたもの見《み》たくなつて、何処《どこ》に居《ゐ》ます/\ツて、せつツ[#「つツ」に「ママ」の注記]いても知《し》らないと、さういつてばかりおいでゝあつたが、毎日《まいにち》/\あまりしつこかつたもんだから、とう/\余儀《よぎ》なさゝうなお顔色《かほつき》で、
(鳥屋《とりや》の前《まへ》にでもいつて見《み》て来《く》るが可《いゝ》)
そんならわけはない。
小屋《こや》を出《で》て二|町《ちやう》ばかり行《ゆ》くと直《すぐ》坂《さか》があつて、坂《さか》の下口《おりくち》に一軒《いつけん》鳥屋《とりや》があるので、樹蔭《こかげ》も何《なん》にもない、お天気《てんき》のいゝ時《とき》あかるい/\小《ちひ》さな店《みせ》で、町家《まちや》の軒《のき》ならびにあつた。鸚鵡《あうむ》なんざ、くるツとした露《つゆ》のたりさうな、小《ちい》[#「ちい」はママ]さな眼《め》で、あれで瞳《ひとみ》が動《うご》きますね。毎日《まいにち》々々行《い》つちやあ立《た》つて居《ゐ》たので、しまひにやあ見知顔《みしりがほ》で私《わたし》の顔《かほ》を見《み》て頷《うなづ》くやうでしたつけ、でもそれぢやあない。
駒《こま》はね、丈《たけ》の高《たか》い、籠《かご》ん中《なか》を下《した》から上《うへ》へ飛《と》んで、すがつて、ひよいと逆《さかさ》に腹《はら》を見《み》せて熟柿《ぢくし》の落《おつ》こちるやうにぽたりとおりて餌《え》をつゝいて、私《わたし》をばかまひつけない、ちつとも気《き》に懸《か》けてくれやうとはしないで[#「いで」に「ママ」の注記]あつた、それでもない。皆《みんな》違《ちが》つとる。翼《はね》の生《は》へたうつくしい姉《ねえ》さんは居《ゐ》ないのッて、一所《いつしよ》に立《た》つた人《ひと》をつかまへちやあ、聞《き》いたけれど、笑《わら》ふものやら、嘲《あざ》けるものやら、聞《き》かないふりをするものやら、つまらないとけなすものやら、馬鹿《ばか》だといふものやら、番小屋《ばんごや》の媽々《かゝ》に似《に》て此奴《こいつ》も何《ど》うかして居《ゐ》らあ、といふものやら、皆《みんな》獣《けだもの》だ。
(翼《はね》の生《は》へたうつくしい姉《ねえ》さんは居《ゐ》ないの)ツて聞《き》いた時《とき》、莞爾《につこり》笑《わら》つて両方《りやうはう》から左右《さいう》の手《て》でおうやうに私《わたし》の天窓《あたま》を撫《な》でゝ行《い》つた、それは一様《いちやう》に緋羅紗《ひらしや》のづぼんを穿《は》いた二人《ふたり》の騎兵《きへい》で――聞《き》いた時《とき》――莞爾《につこり》笑《わら》つて、両方《りやうほう》から左右《さいう》の手《て》で、おうやうに私《わたし》の天窓《あたま》をなでゝ、そして手《て》を引《ひき》あつて黙《だま》つて坂《さか》をのぼつて行《い》つた、長靴《ながぐつ》の音《おと》がぼつくりして、銀《ぎん》の剣《けん》の長《なが》いのがまつすぐに二《ふた》ツならんで輝《かゞや》いて見《み》えた。そればかりで、あとは皆《みな》馬鹿《ばか》にした。
五日《いつか》ばかり学校《がくかう》から帰《かへ》つちやあ其足《そのあし》で鳥屋《とりや》の店《みせ》へ行《い》つてじつと立《た》つて奥《おく》の方《はう》の暗《くら》い棚《たな》ん中《なか》で、コト/\と音《おと》をさして居《ゐ》る其《その》鳥《とり》まで見覚《みおぼ》えたけれど、翼《はね》の生《は》へた姉《ねえ》さんは居《ゐ》ないのでぼんやりして、ぼツとして、ほんとうに少《すこ》し馬鹿《ばか》になつたやうな気《き》がしい/\、日《ひ》が暮《く》れると帰《かへ》り帰《かへ》りした。で、とても鳥屋《とりや》には居《ゐ》ないものとあきらめたが、何《ど》うしても見《み》たくツてならないので、また母様《おつかさん》にねだつて聞《き》いた。何処《どこ》に居《ゐ》るの、翼《はね》の生《は》へたうつくしい人《ひと》は何処《どこ》に居《ゐ》るのツて。何《なん》とおいひでも肯分《きゝわ》けないものだから母様《おつかさん》が、
(それでは林《はやし》へでも、裏《うら》の田畝《たんぼ》へでも行《い》つて見《み》ておいで。何故《なぜ》ツて天上《てんじよう》に遊《あそ》んで居《ゐ》るんだから籠《かご》の中《なか》に居《ゐ》ないのかも知《し》れないよ)
それから私《わたし》、あの、梅林《ばいりん》のある処《ところ》に参《まゐ》りました。
あの桜山《さくらやま》と、桃谷《もゝだに》と、菖蒲《あやめ》の池《いけ》とある処《ところ》で。
しかし其《それ》は唯《たゞ》青葉《あをば》ばかりで菖蒲《あやめ》の短《みじか》いのがむらがつてゝ、水《みづ》の色《いろ》の黒《くろ》い時分《じぶん》、此処《こゝ》へも二日《ふつか》、三日《みつか》続《つゞ》けて行《ゆ》きましたつけ、小鳥《ことり》は見《み》つからなかつた。烏《からす》が沢山《たんと》居《ゐ》た。あれが、かあ/\鳴《な》いて一《ひと》しきりして静《しづ》まると其姿《そのすがた》の見《み》えなくなるのは、大方《おほかた》其翼《そのはね》で、日《ひ》の光《ひかり》をかくしてしまふのでしやう、大《おほ》きな翼《はね》だ、まことに大《おほき》い翼《つばさ》だ、けれどもそれではない。

     第十二

日《ひ》が暮《く》れかゝると彼方《あつち》に一《ひと》ならび、此方《こつち》に一《ひと》ならび縦横《じうわう》になつて、梅《うめ》の樹《き》が飛《とび》々に暗《くら》くなる。枝《えだ》々のなかの水田《みづた》の水《みづ》がどむよりして淀《よど》むで居《ゐ》るのに際立《きはだ》つて真白《まつしろ》に見《み》えるのは鷺《さぎ》だつた、二羽《には》一処《ひとところ》にト三羽《さんば》一処《ひとところ》にト居《ゐ》てそして一羽《いちは》が六|尺《しやく》ばかり空《そら》へ斜《なゝめ》に足《あし》から糸《いと》のやうに水《みづ》を引《ひ》いて立《た》つてあがつたが音《おと》がなかつた、それでもない。
蛙《かはづ》が一斉《いつせい》に鳴《な》きはじめる。森《もり》が暗《くら》くなつて、山《やま》が見《み》えなくなつた。
宵月《よいづき》の頃《ころ》だつたのに曇《くもつ》てたので、星《ほし》も見《み》えないで、陰々《いんいん》として一面《いちめん》にものゝ色《いろ》が灰《はい》のやうにうるんであつ
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