め二重括弧、1−2−54]詰《つま》らない、そりや囀《さへづ》るんです。ものをいふのぢやあなくツて、囀《さへづ》るの、だから何《なに》をいふんだか分《わか》りますまい※[#終わり二重括弧、1−2−55]ツて聞《き》いたよ。僕《ぼく》ね、あのウだつてもね、先生《せんせい》、人だつて、大勢《おほぜい》で、皆《みんな》が体操場《たいさうば》で、てんでに何《なに》かいつてるのを遠《とほ》くン処《とこ》で聞《き》いて居《ゐ》ると、何《なに》をいつてるのか些少《ちつと》も分《わか》らないで、ざあ/\ツて流《なが》れてる川《かは》の音《おと》とおんなしで僕《ぼく》分《わか》りませんもの。それから僕《ぼく》の内《うち》の橋《はし》の下《した》を、あのウ舟《ふね》漕《こ》いで行《ゆ》くのが何《なん》だか唄《うた》つて行《ゆ》くけれど、何《なに》をいふんだかやつぱり鳥《とり》が声《こゑ》を大《おほ》きくして長《なが》く引《ひつ》ぱつて鳴《な》いてるのと違《ちが》ひませんもの。ずツと川下《かはしも》の方《はう》でほう/\ツて呼《よ》んでるのは、あれは、あの、人《ひと》なんか、犬《いぬ》なんか、分《わか》りませんもの。雀《すゞめ》だつて、四十雀《しじふから》だつて、軒《のき》だの、榎《えのき》だのに留《と》まつてないで、僕《ぼく》と一所《いつしよ》に坐《すわ》つて話《はな》したら皆《みんな》分《わか》るんだけれど、離《はな》れてるから聞《き》こえませんの。だつてソツとそばへ行《い》つて、僕《ぼく》、お談話《はなし》しやうと思《おも》ふと、皆《みんな》立《た》つていつてしまひますもの、でも、いまに大人《おとな》になると、遠《とほ》くで居《ゐ》ても分《わか》りますツて、小《ちひ》さい耳《みゝ》だから、沢山《たんと》いろんな声《こゑ》が入《はい》らないのだつて、母様《おつかさん》が僕《ぼく》、あかさん[#「あかさん」に傍点]であつた時分《じぶん》からいひました。犬《いぬ》も猫《ねこ》も人間《にんげん》もおんなじだつて。ねえ、母様《おつかさん》、だねえ母様《おつかさん》、いまに皆《みんな》分《わか》るんだね。」

     第三

母様《おつかさん》は莞爾《につこり》なすつて、
「あゝ、それで何《なに》かい、先生《せんせい》が腹《はら》をお立《た》ちのかい。」
そればかりではなかつた。私《わたし》が児心《こどもごゝろ》にも、アレ先生《せんせい》が嫌《いや》な顔《かほ》をしたなト斯《か》う思《おも》つて取《と》つたのは、まだモ少《すこ》し種々《いろん》なことをいひあつてからそれから後《あと》の事《こと》で。
はじめは先生《せんせい》も笑《わら》ひながら、ま、あなたが左様《さう》思《おも》つて居《ゐ》るのなら、しばらくさうして置《お》きましやう。けれども人間《にんげん》には智恵《ちゑ》といふものがあつて、これには他《ほか》の鳥《とり》だの、獣《けだもの》だのといふ動物《だうぶつ》が企《くはだ》て及《およ》ばない、といふことを、私《わたし》が川岸《かはぎし》に住《す》まつて居《ゐ》るからつて、例《れい》をあげておさとしであつた。
釣《つり》をする、網《あみ》を打《う》つ、鳥《とり》をさす、皆《みんな》人《ひと》の智恵《ちゑ》で、何《な》にも知《し》らない、分《わか》らないから、つられて、刺《さ》されて、たべられてしまふのだトかういふことだった。
そんなことは私《わたし》聞《き》かないで知《し》つて居《ゐ》る、朝晩《あさばん》見《み》て居《ゐ》るもの。
橋《はし》を挟《さしはさ》んで、川《かは》を溯《さかのぼ》つたり、流《なが》れたりして、流網《ながれあみ》をかけて魚《うを》を取《と》るのが、川《かは》ン中《なか》に手拱《てあぐら》かいて、ぶる/\ふるへて突立《つゝた》つてるうちは顔《かほ》のある人間《にんげん》だけれど、そらといつて水《みづ》に潜《もぐ》ると、逆《さかさ》になつて、水潜《みづくゞり》をしい/\五|分間《ふんかん》ばかりも泳《およ》いで居《ゐ》る、足《あし》ばかりが見《み》える。其《その》足《あし》の恰好《かくかう》の悪《わる》さといつたらない。うつくしい、金魚《きんぎよ》の泳《およ》いでる尾鰭《をひれ》の姿《すがた》や、ぴら/\と水銀色《すゐぎんいろ》を輝《かゞや》かして刎《は》ねてあがる鮎《あゆ》なんぞの立派《りつぱ》さには全然《まるで》くらべものになるのぢやあない。さうしてあんな、水浸《みづびたし》になつて、大川《おほかは》の中《なか》から足《あし》を出《だ》してる、そんな人間《にんげん》がありますものか。で、人間《にんげん》だと思《おも》ふとをかしいけれど、川《かは》ン中《なか》から足《あし》が生《は》へたのだと、さう思《おも》つて見《み》て居《ゐ》るとおもしろくツて、ちつとも嫌《いや》なことはないので、つまらない観世物《みせもの》を見《み》に行《ゆ》くより、ずつとましなのだつて、母様《おつかさん》がさうお謂《い》ひだから私《わたし》はさう思《おも》つて居《ゐ》ますもの。
それから、釣《つり》をしてますのは、ね、先生《せんせい》、とまた其時《そのとき》先生《せんせい》にさういひました。
あれは人間《にんげん》ぢやあない、簟《きのこ》なんで、御覧《ごらん》なさい。片手《かたて》懐《ふところ》つて、ぬうと立《た》つて、笠《かさ》を冠《かぶ》つてる姿《すがた》といふものは、堤坊《どて》[#「堤坊」はママ]の上《うへ》に一本|占治茸《しめぢ》が生《は》へたのに違《ちが》ひません。
夕方《ゆふがた》になつて、ひよろ長《なが》い影《かげ》がさして、薄暗《うすぐら》い鼠色《ねづみいろ》の立姿《たちすがた》にでもなると、ます/\占治茸《しめぢ》で、づゝと遠《とほ》い/\処《ところ》まで一《ひと》ならびに、十人も三十人も、小《ちひ》さいのだの、大《おほ》きいのだの、短《みぢか》いのだの、長《なが》いのだの、一番《いちばん》橋手前《はしてまへ》のを頭《かしら》にして、さかり時《どき》は毎日《まいにち》五六十|本《ぽん》も出来《でき》るので、また彼処此処《あつちこつち》に五六人づゝも一団《ひとかたまり》になつてるのは、千本《せんぼん》しめぢツて、くさ/\に生《は》へて居《ゐ》る、それは小《ちひ》さいのだ。木《き》だの、草《くさ》だのだと、風《かぜ》が吹《ふ》くと動《うご》くんだけれど、茸《きのこ》だから、あの、茸《きのこ》だからゆつさりとしもしませぬ。これが智恵《ちゑ》があつて釣《つり》をする人間《にんげん》で、些少《ちつと》も動《うご》かない。其間《そのあひだ》に魚《うを》は皆《みんな》で優《いう》々と泳《およ》いでてあるいて居《ゐ》ますわ。
また智恵《ちゑ》があるつて口《くち》を利《き》かれないから鳥《とり》とくらべツこすりや、五分《ごぶ》五分のがある、それは鳥《とり》さしで。
過日《いつかぢう》見《み》たことがありました。
他所《よそ》のおぢさんの鳥《とり》さしが来《き》て、私《わたし》ン処《とこ》の橋《はし》の詰《つめ》で、榎《えのき》の下《した》で立留《たちど》まつて、六本めの枝《えだ》のさきに可愛《かあい》い頬白《ほゝじろ》が居《ゐ》たのを、棹《さを》でもつてねらつたから、あら/\ツてさういつたら、叱《し》ツ、黙《だま》つて、黙《だま》つてツて恐《こは》い顔《かほ》をして私《わたし》を睨《ね》めたから、あとじさりをして、そツと見《み》て居《ゐ》ると、呼吸《いき》もしないで、じつとして、石《いし》のやうに黙《だま》つてしまつて、かう据身《すゑみ》になつて、中空《なかぞら》を貫《つらぬ》くやうに、じりツと棹《さを》をのばして、覗《ねら》つてるのに、頬白《ほゝじろ》は何《なん》にも知《し》らないで、チ、チ、チツチツてツて、おもしろさうに、何《なに》かいつてしやべつて居《ゐ》ました。
其《それ》をとう/\突《つゝつ》いてさして取《と》ると、棹《さを》のさきで、くる/\と舞《ま》つて、まだ烈《はげ》しく声《こゑ》を出《だ》して啼《な》いてるのに、智恵《ちゑ》のあるおぢさんの鳥《とり》さしは、黙《だま》つて、鰌掴《どぜうつかみ》にして、腰《こし》の袋《ふくろ》ン中《なか》へ捻《ねぢ》り込《こ》むで、それでもまだ黙《だま》つて、ものもいはないので、のつそりいつちまつたことがあつたんで。

     第四

頬白《ほゝじろ》は智恵《ちゑ》のある鳥《とり》さしにとられたけれど、囀《さへづ》つてましたもの。ものをいつて居《ゐ》ましたもの。おぢさんは黙《だんま》りで、傍《そば》に見《み》て居《ゐ》た私《わたし》までものをいふことが出来《でき》なかつたんだもの、何《なに》もくらべこして、どつちがえらいとも分《わか》りはしないつて。
何《なん》でもそんなことをいつたんで、ほんとう[#「とう」に「ママ」の注記]に私《わたし》さう思《おも》つて居《ゐ》ましたから。
でも其《それ》を先生《せんせい》が怒《おこ》つたんではなかつたらしい。
で、まだ/\いろんなことをいつて、人間《にんげん》が、鳥《とり》や獣《けだもの》よりえらいものだとさういつておさとしであつたけれど、海《うみ》ン中《なか》だの、山奥《やまおく》だの、私《わたし》の知《し》らない、分《わか》らない処《ところ》のことばかり譬《たとへ》に引《ひ》いていふんだから、口答《くちごたへ》は出来《でき》なかつたけれど、ちつともなるほどと思《おも》はれるやうなことはなかつた。
だつて、私《わたし》母様《おつかさん》のおつしやること、虚言《うそ》だと思《おも》ひませんもの。私《わたし》の母様《おつかさん》がうそをいつて聞《き》かせますものか。
先生《せんせい》は同《おなじ》一組《クラス》の小児達《こどもたち》を三十人も四十人も一人《ひとり》で可愛《かあい》がらうとするんだし、母様《おつかさん》は私《わたし》一人|可愛《かあ》いんだから、何《ど》うして、先生《せんせい》のいふことは私《わたし》を欺《だま》すんでも、母様《おつかさん》がいつてお聞《き》かせのは、決《けつ》して違《ちが》つたことではない、トさう思《おも》つてるのに、先生《せんせい》のは、まるで母様《おつかさん》のと違《ちが》つたこといふんだから心服《しんぷく》はされないぢやありませんか。
私《わたし》が頷《うなづ》かないので、先生《せんせい》がまた、それでは、皆《みんな》あなたの思《おも》つている通《とほ》りにして置《お》きましやう。けれども木《き》だの、草《くさ》だのよりも、人間《にんげん》が立優《たちまさ》つた、立派《りつぱ》なものであるといふことは、いかな、あなたにでも分《わか》りましやう、先《ま》づそれを基礎《どだい》にして、お談話《はなし》をしやうからつて、聞《き》きました。
分《わか》らない。私《わたし》さうは思《おも》はなかつた。
「あのウ母様《おつかさん》、だつて、先生《せんせい》、先生《せんせい》より花《はな》の方《ほう》[#「ほう」はママ]がうつくしうございますツてさう謂《い》つたの。僕《ぼく》、ほんとう[#「とう」はママ]にさう思《おも》つたの、お庭《には》にね、ちやうど菊《きく》の花《はな》が咲《さ》いてるのが見《み》えたから。」
先生《せんせい》は束髪《そくはつ》に結《ゆ》つた、色《いろ》の黒《くろ》い、なりの低《ひく》い頑丈《がんじやう》な、でく/\肥《ふと》つた婦人《をんな》の方《かた》で、私《わたし》がさういふと顔《かほ》を赤《あか》うした。それから急《きふ》にツヽケンドンなものいひおしだから、大方《おほかた》其《それ》が腹《はら》をお立《た》ちの源因《げんゐん》であらうと思《おも》ふ。
「母様《おつかさん》、それで怒《おこ》つたの、さうなの。」
母様《おつかさん》は合点々々《がつてんがつてん》をなすつて、
「おゝ、そんなことを坊《ばう》や、お前《まへ》いひましたか。そりや御道理《ごもつとも》だ。」
といつて笑顔《ゑがほ》を
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