を思《おも》つた。其《その》たびにさういつて母様《おつかさん》にきいて見《み》るト何《なに》、皆《みんな》鳥《とり》が囀《さへづ》つてるんだの、犬《いぬ》が吠《ほ》えるんだの、あの、猿《さる》が歯《は》を剥《む》くんだの、木《き》が身《み》ぶるいをするんだのとちつとも違《ちが》つたことはないツて、さうおつしやるけれど、矢張《やつぱり》さうばかりは思《おも》はれないで、いぢめられて泣《な》いたり、撫《な》でられて嬉《うれ》しかつたりしい/\したのを、其都度《そのつど》母様《おつかさん》に教《をし》へられて、今《いま》じやあモウ何《なん》とも思《おも》つて居《ゐ》ない。
そしてまだ如彼《あゝ》濡《ぬ》れては寒《さむ》いだらう、冷《つめ》たいだらうと、さきのやうに雨《あめ》に濡《ぬ》れてびしよ/\行《ゆ》くのを見《み》ると気《き》の毒《どく》だつたり、釣《つり》をして居《ゐ》る人《ひと》がおもしろさうだとさう思《おも》つたりなんぞしたのが、此節《このせつ》じやもう唯《たゞ》変《へん》な簟《きのこ》だ、妙《めう》な猪《いぬしゝ》の王様《わうさま》だと、をかしいばかりである、おもしろいばかりである、つまらないばかりである、見《み》ツともないばかりである、馬鹿《ばか》々々しいばかりである、それからみいちやんのやうなのは可愛《かあい》らしいのである、吉公《きちかう》のやうなのはうつくしいのである、けれどもそれは紅雀《べにすゞめ》がうつくしいのと、目白《めじろ》が可愛《かあい》らしいのと些少《ちつと》も違《ちが》ひはせぬので、うつくしい、可愛《かあい》らしい。うつくしい、可愛《かあい》らしい。

     第七

また憎《にく》らしいのがある。腹立《はらた》たしいのも他《ほか》にあるけれども其《それ》も一場合《あるばあひ》に猿《さる》が憎《にく》らしかつたり、鳥《とり》が腹立《はらだ》たしかつたりするのとかはりは無《な》いので、煎《せん》ずれば皆《みな》をかしいばかり、矢張《やつぱり》噴飯材料《ふきだすたね》なんで、別《べつ》に取留《とりと》めたことがありはしなかつた。
で、つまり情《じやう》を動《うご》かされて、悲《かなし》む、愁《うれ》うる、楽《たのし》む、喜《よろこ》ぶなどいふことは、時《とき》に因《よ》り場合《ばあひ》に於《おい》ての母様《おつかさん》ばかりなので。余所《よ
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