が児心《こどもごゝろ》にも、アレ先生《せんせい》が嫌《いや》な顔《かほ》をしたなト斯《か》う思《おも》つて取《と》つたのは、まだモ少《すこ》し種々《いろん》なことをいひあつてからそれから後《あと》の事《こと》で。
はじめは先生《せんせい》も笑《わら》ひながら、ま、あなたが左様《さう》思《おも》つて居《ゐ》るのなら、しばらくさうして置《お》きましやう。けれども人間《にんげん》には智恵《ちゑ》といふものがあつて、これには他《ほか》の鳥《とり》だの、獣《けだもの》だのといふ動物《だうぶつ》が企《くはだ》て及《およ》ばない、といふことを、私《わたし》が川岸《かはぎし》に住《す》まつて居《ゐ》るからつて、例《れい》をあげておさとしであつた。
釣《つり》をする、網《あみ》を打《う》つ、鳥《とり》をさす、皆《みんな》人《ひと》の智恵《ちゑ》で、何《な》にも知《し》らない、分《わか》らないから、つられて、刺《さ》されて、たべられてしまふのだトかういふことだった。
そんなことは私《わたし》聞《き》かないで知《し》つて居《ゐ》る、朝晩《あさばん》見《み》て居《ゐ》るもの。
橋《はし》を挟《さしはさ》んで、川《かは》を溯《さかのぼ》つたり、流《なが》れたりして、流網《ながれあみ》をかけて魚《うを》を取《と》るのが、川《かは》ン中《なか》に手拱《てあぐら》かいて、ぶる/\ふるへて突立《つゝた》つてるうちは顔《かほ》のある人間《にんげん》だけれど、そらといつて水《みづ》に潜《もぐ》ると、逆《さかさ》になつて、水潜《みづくゞり》をしい/\五|分間《ふんかん》ばかりも泳《およ》いで居《ゐ》る、足《あし》ばかりが見《み》える。其《その》足《あし》の恰好《かくかう》の悪《わる》さといつたらない。うつくしい、金魚《きんぎよ》の泳《およ》いでる尾鰭《をひれ》の姿《すがた》や、ぴら/\と水銀色《すゐぎんいろ》を輝《かゞや》かして刎《は》ねてあがる鮎《あゆ》なんぞの立派《りつぱ》さには全然《まるで》くらべものになるのぢやあない。さうしてあんな、水浸《みづびたし》になつて、大川《おほかは》の中《なか》から足《あし》を出《だ》してる、そんな人間《にんげん》がありますものか。で、人間《にんげん》だと思《おも》ふとをかしいけれど、川《かは》ン中《なか》から足《あし》が生《は》へたのだと、さう思《おも》つて見《み》て
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