られるたびに、あの眼が、何だか腹の中まで見透《みすか》すようで、おどおどしずにゃいられない。(貞)ッて一声呼ばれると、直ぐその、あとの句が、(お前、吾《おれ》の死ぬのが待遠いだろう。)とこう来るだろうと思うから、はッとしないじゃいられないわね。それで何ぞ外のことを言われると、ほッと気が休まって、その嬉しさっちゃないもんだから、用でも、何でも、いそいそする。
それにこうやって、ここへ坐って、一人でものを考えてる時は、頭の中で、ぐるぐるぐるぐる、(死ねば可い)という、鬼か、蛇《じゃ》か、何ともいわれない可恐《こわい》ものが、私の眼にも見えるように、眼前《めさき》に駈《かけ》まわっているもんだから、自分ながら恐しくッて、観音様を念じているの。そこへがらりと戸を開けられちゃあ、どうして慌てずにいられよう。(ああ、めッかった。)と、もう死んだ気になっちまう!
それが心配で、心配で、どうぞして忘れたいと思うから、けもないことにわあわあ騒いだり、笑ったり、他所《よそ》めには、さも面白そうに見えようけれど、自分じゃ泣きたいよ。あとではなおさら気がめいッて、ただしょんぼりと考え込むと、また、いつもの(死ねばいい)が見えるようなの。
恐しくッてたまらないから、どうぞこの念がなくなりますようにと、観音様に願っても、罪が深いせいなのか、段々強くなるばかり。
気のせいか知らないけれど、旦那は日に日に血色が悪くなって、次第に弱って行く様子、こりゃ思いが届くのかと考えると、私ゃもう居ても起《た》っても堪《たま》らない。
だから旦那が煩いでもすると、ハッと思って、こりゃどうでも治さないと、私が呪詛《のろい》殺すのだと、もうもうさほどでもない病気でも、夜《よ》の目も寝ないで介抱するが、お医者様のお薬でも、私の手から飲ませると、かえって毒になるようで、何でも半日ばかりの間は、今にも薬の毒がまわって、血でも吐きやしないかしらと、どうしてその間の心配というものは! でもそれでもやっぱり考えることといったら、ちっとも違《ちがい》はない、(死ねば可い。)で、早くなおって欲しいのは、実は(死ねば可い。)と思うからだよ。
ねえ、芳さん分ったろう。もう胸が一杯で、口も利かれやしないから、後生だ、推量しておくれ。も、私ゃ、私はもう芳さんどうしたら可いんだねえ。」
と身を震わしたるいじらしさ!
お貞がこの衷情《ちゅうじょう》に、少年は太《いた》く動かされつ。思わず暗涙《なみだ》を催したり。
「ああ姉様は可哀そうだねえ。僕が、僕が、僕が、どうかしてあげようから、姉さん死んじゃあ不可《いけな》いよ。」
お貞は聞きて嬉しげに少年の手をじっと取りて、
「嬉しいねえ。何の自害なんかするもんかね、世間と、旦那として私をこんなにいじめるもの。いじめ殺されて負けちゃ卑怯《ひきょう》よ。意気地が無いわ。可いよ、そんな心配は要らないよ。私ゃ面《つら》あてにでも、活《い》きている。たといこの上幾十倍のつらい悲しいことがあっても、きっと堪《こら》えて死にゃあしないわ。と心強くはいってみても、死なれないのが因果なのだねえ。」
ほろりとして見る少年の眼にも涙を湛《たた》えたり。時に二階より老女の声。
「芳や、帰ったの。」
「あれ、おばあさんが。」
「はい、唯今《ただいま》。」
十四
二段ばかり少年は壇階子《だんばしご》を昇り懸けて、と顧みて驚きぬ。時彦は帰宅して、はや上口《あがりぐち》の処に立てり。
我が座を立ちしと同時ならむ。と思うも見るもまたたくま、さそくの機転、下を覗《のぞ》きて、
「もう、奥様《おくさん》、何時《なんどき》です。」
「は。」
とお貞は起《た》ちたるが、不意に顛倒《てんどう》して、起ちつ、居つ。うろうろ四辺《あたり》を見廻す間《ひま》に、時彦は土間に立ちたるまま、粛然として帯の間より、懐中時計を取出《とりいだ》し、丁寧に打視《うちなが》めて、少年を仰ぎ見んともせず、
「五十九分前六時です。」
「憚様《はばかりさま》。」
と少年は跫音《あしおと》高く二階に上れり。
時彦は時計を納めつ。立ちも上らず、坐りも果てざる、妻に向《むか》いて、沈める音調、
「貞、床を取ってくれ、気分が悪いじゃ。貞、床をとってくれ、気分が悪いじゃ。」
面《おもて》は死灰のごとくなりき。
十五
時彦はその時よりまた起《た》たず、肺結核の患者は夏を過ぎて病勢募り、秋の末つ方に到りては、恢復《かいふく》の望《のぞみ》絶果てぬ。その間お貞が尽したる看護の深切は、実際隣人を動かすに足るものなりき。
渠《かれ》は良人の容体の危篤に陥りしより、ほとんど一月ばかりの間帯を解きて寝しことあらず、分けてこのごろに到りては、一七日《いちしちにち》いまだかつて瞼《まぶた》を合さず、渠は茶を断ちて神に祈れり。塩を断ちて仏に請えり。しかれども時彦を嫌悪の極、その死の速《すみや》かならんことを欲する念は、良人に薬を勧むる時も、その疼痛《とうつう》の局部を擦《さす》る隙《ひま》も、須臾《しゅゆ》も念頭を去りやらず。甚しいかなその念の深く刻めるや、おのが幾年の寿命を縮め、身をもて神仏の贄《にえ》に供えて、合掌し、瞑目《めいもく》して、良人の本復を祈る時も、その死を欲するの念は依然として信仰の霊を妨げたり。
良人の衰弱は日に著《しる》けきに、こは皆おのが一念よりぞと、深更四隣静まりて、天地沈々、病者のために洋燈《ランプ》を廃して行燈《あんどん》にかえたる影暗く、隙間《すきま》もる風もあらざるにぞ、そよとも動かぬ灯影《ほかげ》にすかして、その寂《じゃく》たること死せるがごとき、病者の面をそと視《なが》めて、お貞は顔を背けつつ、頤《おとがい》深く襟に埋《うず》めば、時彦の死を欲する念、ここぞと熾《さかん》に燃立ちて、ほとんど我を制するあたわず。そがなすままに委《まか》しおけば、奇異なる幻影|眼前《めさき》にちらつき、※[#「火+發」、153−7]《ぱっ》と火花の散るごとく、良人の膚《はだ》を犯すごとに、太く絶え、細く続き、長く幽《かす》けき呻吟声《うめきごえ》の、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自ら悼《いた》み、且つ泣き、且つ怒《いか》り、且つ悔いて、ほとんどその身を忘るる時、
「お貞。」
と一声《ひとこえ》、時彦は、鬱《うつ》し沈める音調もて、枕も上げで名を呼びぬ。
この一声を聞くとともに、一桶《ひとおけ》の氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、
「はい。」
と戦《おのの》きたり。
時彦はいともの静《しずか》に、
「お前、このごろから茶を断ッたな。」
「いえ、何も貴下《あなた》、そんなことを。」
と幽かにいいて胸を圧《おさ》えぬ。
時彦は頤《おとがい》のあたりまで、夜着の襟深く、仰向《あおむけ》に枕して、眼細《まぼそ》く天井を仰ぎながら、
「塩断《しおだち》もしてるようだ。一昨日《おととい》あたりから飯も食べないが、一体どういう了簡《りょうけん》じゃ。」
(貴下を直したいために)といわんは、渠の良心の許さざりけむ、差俯向《さしうつむ》きてお貞は黙しぬ。
「あかりが暗い、掻立《かきた》てるが可い。お前が酷《ひど》く瘠《や》せッこけて、そうしょんぼりとしてる処は、どう見ても幽霊のようじゃ、行燈が暗いせいだろう。な。」
「はい。」
お貞は、深夜幽霊の名を聞きて、ちりけもとより寒さを感じつ。身震いしながら、少しく居寄りて、燈心の火を掻立てたり。
「そんなに身体《からだ》を弱らせてどうしようという了簡なんか。うむ、お貞。」
根深く問うに包みおおせず、お貞はいとも小さき声にて、
「よく御存じでございます。」
「むむ、お前のすることは一々|吾《おり》ゃ知っとるぞ。」
「え。」
とお貞はずり退《さが》りぬ。
「茶断《ちゃだち》、塩断《しおだち》までしてくれるのに、吾《おれ》はなぜ早く死なんのかな。」
お貞は聞きて興覚顔《きょうざめがお》なり。
時彦の語気は落着けり。
「疾《はや》く死ねば可いと思うておって、なぜそんな真似をするんだな。」
と声に笑いを含めて謂《い》えり。お貞はほとんど狂せんとせり。
病者はなおも和《やわら》かに、
「何、そう驚くにゃ及ばない。昨日今日にはじまったことではないが、お貞、お前は思ったより遥《はるか》に恐しい女だな。あれは憎い、憎い奴だから殺したいということなら、吾《おれ》も了簡のしようがあるが、(死んでくれりゃ可い。)は実に残酷だ。人を殺せば自分も死なねばならぬというまず世の中に定規《さだめ》があるから、我身《わがみ》を投出して、つまり自分が死んでかかって、そうしてその憎い奴を殺すのじゃ。誰一人|生命《いのち》を惜《おし》まぬものはない、活きていたいというのが人間第一の目的じゃから、その生命《いのち》を打棄ててかかるものは、もう望《のぞみ》を絶ったもので、こりゃ、隣《あわれ》むべきものである。
お前のはそうじゃあない。(死んでくれりゃ可い)と思うので、つまり精神的に人を殺して、何の報《むくい》も受けないで、白日青天、嫌な者が自分の思いで死んでしまった後《あと》は、それこそ自由自在の身じゃでの、仕たい三昧《ざんまい》、一人で勝手に栄耀《えよう》をして、世を愉快《おもしろ》く送ろうとか、好《すき》な芳之助と好《い》いことをしようとか、怪《け》しからんことを思うている、つまり希望というものがお前にあるのだ。
人の死ぬのを祈りながら、あとあとの楽《たのし》みを思うている、そんな太い奴があるもんか。
吾《おれ》はきっと許さんぞ。
そうそう好《すき》なまねをお前にされて、吾も男だ、指を啣《くわ》えて死にはしない。
といつも思っていたんだが、もうこの肺病には勝たれない、いや、つまり、お前に負けたのだ。
してみれば、お貞、お前が呪詛《のろい》殺すんだと、吾がそう思っても、仕方があるまい。
吾はどのみち助からないと、初手ッから断念《あきら》めてるが、お貞、お前の望が叶《かの》うて、後で天下|晴《ばれ》に楽《たのし》まれるのは、吾はどうしても断念められない。
謂うと何だか、女々しいようだが、報のない罪をし遂げて、あとで楽《たのしみ》をしようという、虫の可いことは決して無い。またそうさせるような吾でもない。
お貞、謝罪《わび》をしちゃあ可《い》かんぞ。お前は何も謝罪をすることもなし、吾も別に謝罪を聞く必要も認めんじゃ。悪かったというて謝罪をすればそれで済む、謝罪を聞けば了簡すると、そんな気楽なことを思うと、吾のいうことが分るまいでな。何でもしたことには、それ相当の報酬《むくい》というものが、多くもなく、少なくもなく、ちょうど可いほどあるものだと、そう思ってろ! 可いか、お貞、……お貞。」
と少し急《せ》き込みて、絶え入るばかりに咽《むせ》びつつ、しばらく苦痛を忍びしが、がらがらと血を吐きたり。
いつもかかることのある際には、一刀《ひとかたな》浴びたるごとく、蒼《あお》くなりて縋《すが》り寄りし、お貞は身動《みうごき》だもなし得ざりき。
病者は自ら胸を抱《いだ》きて、眼《まなこ》を瞑《ねむ》ること良久《ひさ》しかりし、一際《ひときわ》声の嗄《から》びつつ、
「こう謂えばな、親を蹴殺《けころ》した罪人でも、一応は言訳をすることが出来るものをと、お前は無念に思うであろうが、法廷で論ずる罪は、囚徒が責任を負ってるのだ。
今お前が言訳をして、今日からどんな優しい気になろうとも、とても助からない吾に取っては、何の利益も無いことで、死んでしまえば、それ、お前は日本晴で、可いことをして楽《たのし》むんじゃ。そううまくはきっとさせない。言訳がましいことを謂うな。聞くような吾でもなし。またお前だってそうだ。人殺《ひとごろし》よりなおひどい、(死んでくれれば可い)と思うほどの度胸のある婦人《おんな》でないか。しっかりとしろ! うむ、お貞。」
お貞は屹《きっ》と顔を上げて、
「はい、決して申訳はいたしません。」
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