といと潔よく言放てる、両の瞳の曇は晴れつ。旭光《きょっこう》一射霜を払いて、水仙たちまち凜《りん》とせり。
 病者は心地|好《よ》げに頷《うなず》きぬ。
「可《よ》し、よく聞け、お貞。人の死ぬのを一日待に待ち殺して、あとでよい眼を見ようというはずるい[#「ずるい」に傍点]ことだ。考えてみろ。お前は今までに人情の上から吾に数え切れない借があろう。それをな、その負債をな。今吾に返すんだ。吾はどうしても取ろうというのだ。」
 いと恐しき声にもおじず、お貞は一膝|乗出《のりいだ》して、看病疲れに繕わざる、乱れし衣紋《えもん》を繕いながら、胸を張りて、面《おもて》を差向け、
「旦那、どうして返すんです。」
「離縁しよう。いまここで、この場から離縁しよう。死にかかっている吾を見棄てて、芳之助と手を曳《ひ》いて、温泉へでも湯治に行《ゆ》け。だがな、お前は家附の娘だから、出て行《ゆ》くことが出来ぬと謂えば、ナニ出て行くには及ばんから、床ずれがして寝返りも出来ない、この吾を、芳之助と二人で負《おぶ》って行って、姨捨山《おばすてやま》へ捨てるんだ。さ、どちらでも構わない。ただ、(人の妻たる者が、死にかかってる良人を見棄てた。)とこういうことが世間へ知れて、世の中の者がみんなその気でお前に附合えば、それで可い、それで可い。ちっとは負債が返せるのだ。
 しかし、これはお前には出来ぬこッた。お前は世間体というものを知ってるから、平生、吾が健全《たっしゃ》な時でも、そんな事は※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》にも出さないほどだ。それが出来るくらいなら、もう疾《とっ》くに離別《わかれ》てしまったに違いない。うむ、お貞、どうだ、それとも見棄てて、離縁が出来るか。」
 お貞は一思案にも及ばずして、
「はい、そんなことは出来ません。」
 病者はさもこそと思える状《さま》なり。
「それではお貞、お前の念《おも》いで死なないうちに、……吾《おれ》を殺せ。」
 と静《しずか》にいう。
「え、貴下《あなた》を!」
「うむ、吾《おれ》を。お貞、ずるい根性を出さないで、表向《おもてむき》に吾を殺して、公然、良人殺しの罪人になるのだ。お貞、良人|殺《ころし》の罪人になるのだ。うむお貞。
 吾を見棄てるか、吾を殺すか、うむ、どちらにするな。何でも負債を返さないでは、あんまり冥利《みょうり》が悪いでないか。いや、ないかどころでない! そうしなけりゃ許さんのだ。うむ、お貞、どっちにする、殺さないと、離縁にする!」
 といと厳《おごそ》かに命じける。お貞は決する色ありて、
「貴下《あなた》、そ、そんなことを、私にいってもいいほどのことがあるんですか。」
 声ふるわして屹《きっ》と問いぬ。
「うむ、ある。」
 と確乎《かっこ》として、謂う時病者は傲然《ごうぜん》たりき。
 お貞はかの女が時々神経に異変を来《きた》して、頭《かしら》あたかも破《わ》るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面|蒼《あお》くなりながら、身火《しんか》烈々|身体《からだ》を焼きて、恍《こう》として、茫《ぼう》として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼《まなこ》にこめて、その瞳をも動かさで、じっと人を目詰《みつ》むれば他をして身の毛をよだたすことある、その時と同一《おなじ》容体《ありさま》にて、目まじろぎもせで、死せるがごとき時彦の顔を瞻《みまも》りしが、俄然《がぜん》、崩折《くずお》れて、ぶるぶると身震いして、飛着くごとく良人に縋《すが》りて、血を吐く一声夜陰を貫き、
「殺します、旦那、私はもう……」
 とわッとばかりに泣出しざま、擲《なげう》たれたらんかのごとく、障子とともに僵《たお》れ出でて、衝《つ》と行《ゆ》き、勝手|許《もと》の暗《やみ》を探りて、渠《かれ》は得物を手にしたり。
 時彦ははじめのごとく顔の半ばに夜具を被《かつ》ぎ、仰向《あおむけ》に寝て天井を眺めたるまま、此方《こなた》を見向かんともなさずして、いとも静《しずか》に、冷《ひやや》かに、着物の袖も動かさざりき。
 諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過《よぎ》りたまわん時、好事《こうず》の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏《ばけいちょう》の旅店? と問われよ。老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥《しゅうじょく》の後《のち》に御注意あれ。
 間《ま》広き旅店の客少なく、夜半の鐘声|森《しん》として、凄風《せいふう》一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然《きょうぜん》たる足音あり寂寞《せきばく》を破り近着き来《きた》りて、黒きもの颯《さ》とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗《うかが》うあらむ。その時声を立てられな。もし咳《しわぶき》をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返《いちょうがえし》の背向《うしろむき》に、あとあし下りに入《い》り来りて、諸君の枕辺《まくらべ》に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然《しょうぜん》としたまわんか。トタンに件《くだん》の幽霊は行燈《あんどん》の火を吹消《ふっけ》して、暗中を走る跫音《あしおと》、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭《はずれ》に至りて、そのままハタと留《や》むべきなり。
 夜《よ》はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮《おもんばか》りて、諸君は一夜を待明かさむ。
 明くるを待ちて主翁《あるじ》に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然《しゅうぜん》としてその実を語るべきなり。
 聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室《ひとま》に行《ゆ》け。密閉したる暗室内に俯向《うつむ》き伏したる銀杏返の、その背と、裳《もすそ》の動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透《すき》より見るを得《う》べし。これ蓋《けだ》し狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。
 されど室内に立入りて、その面《おもて》を見んとせらるるとも、主翁は頑として肯《がえん》ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来《じらい》世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠《かれ》は恐懼《おそれ》て日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚《はだえ》に一注せば、渠は立処《たちどころ》に絶して万事|休《や》まむ。
 光を厭《いと》うことかくのごとし。されば深更|一縷《いちる》の燈火《ともしび》をもお貞は恐れて吹消《ふっけ》し去るなり。
 渠はしかく活《い》きながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕《じょ》せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺《いころ》すなかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意《ほい》なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや。
[#地から1字上げ]明治二十九(一八九六)年二月



底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
   1942(昭和17)年9月30日発行
初出:「文芸倶楽部」
   1896(明治29)年2月
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年7月3日作成
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