て、あの児も大層姉おもいだと見えまして、姉様々々ッて慕ってくれますもんですから、私もつい可愛くなります。)と無理だとは言われないつもりで言ったけれど、(他人で、姉弟というがあるものか)ッて、真底から了簡《りょうけん》しないの。傍《そば》に居た伯父さんも、伯母さんも、やっぱりおんなじようなことを言って、(ふむ、そんなことで世の中が通るものか。言ようもあろうのに、ナニ姉弟分だ。)とこうさ。口惜《くや》しいじゃあないかねえ。芳さん、たとい芳さんを抱いて寝たからたッて、二人さえ潔白なら、それで可いじゃあないか、旦那が何と言ったって、私ゃちっとも構やしないわ。」
お貞はかく謂えりしまで、血色勝れて、元気よく、いと心強く見えたりしが、急に語調の打沈みて、
「しかしこうはいうものの、芳さん世の中というものがね、それじゃあ合点《がってん》しないとさ。たとい芳さんと私とが、どんなに潔白であッたからっても、世間じゃそうとは思ってくれず、(へん、腹合せの姉弟だ。)と一万石に極《きめ》っちまう! 旦那が悪いというでもなく、私と芳さんが悪いのでもなく、ただ悪いのは世間だよ。
どんなに二人が潔白で、心は雪のように清くッてもね、泥足で踏みにじって、世間で汚くしてしまうんだわ。
雪といえば御覧な、冬になって雪が降ると、ここの家《うち》なんざ、裏の地面が畠《はたけ》だからね、木戸があかなくッて困るんだよ。理窟を言えば同一《おんなじ》で、垣根にあるだけの雪ならば、無理に推せば開《あ》くけれど、ずッとむこうの畠から一面に降りつづいて、その力が同一《ひとつ》になって、表からおすのだもの。どうして、何といわれても、世間にゃあ口が開《あ》かないのよ。
男の腕なら知らないこと、女なんざそれを無理にこじあけようとすると、呼吸切《いきぎれ》がしてしまうの。でも芳さんは士官になるというから、今に大将にでもおなりの時は、その力でいくらも世間を負かしてしまって、何にも言わさないように出来もしようけれど、今といっちゃあたッた二人で、どうすることもならないのよ。
それとも神様や仏様が、私だちの手伝をして、力を添えて下さりゃ可いけれど、そんな願《ねがい》はかなわないわね。
婆々《ばばあ》じみるッて芳さんはお笑いだが、芳さんなぞはその思遣《おもいやり》があるまいけれど、可愛《かわゆ》い児でも亡くして御覧、そりゃおのずと後生《ごしょう》のことも思われるよ。
あれは、えらい僧正だって、旦那の勧める説教を聞きはじめてから、方々へ参詣《まい》ったり、教《おしえ》を聞いたりするんだがね。なるほどと思うことばかり、それでも世の中に逆らッて、それで、御利益があるッてことは、ちっとも聞かしちゃあくれないものを。
戸を推《お》ッつけてる雪のような、力の強い世の中に逆らって行《ゆ》こうとすると、そりゃ弱い方が殺されッちまうわ。そうすりゃもう死ぬより他《ほか》はないじゃないかね。
私ももうもう死んでしまいたいと思うけれど、それがまたそうも行《ゆ》かないものだし、このごろじゃ芳さんという可愛いものが出来たからね、私ゃ死ぬことは嫌になったわ。ほんとうさ! 自分の児が可愛いとか、芳さんとこうやって談話《はなし》をするのが嬉しいとか、何でも楽《たのし》みなことさえありゃ、たとい辛くッても、我慢が出来るよ。どうせ、私は意気地なしで、世間に負けているからね、そりゃ旦那は大事にもする、病気《やまい》が出るほど嫌な人でも、世間《よのなか》にゃ勝たれないから、たとい旦那が思い切って、縁を切ろうといってもね、どんな腹いせでも旦那にさせて、私ゃ、あやまって出て行《ゆ》かない。」
と歯をくいしめてすすり泣きつ。
十二
お貞は幾年来独り思い、独り悩みて、鬱積《うっせき》せる胸中の煩悶《はんもん》の、その一片をだにかつて洩《もら》せしことあらざりしを、いま打明くることなれば、順序も、次第も前後して、乱れ且つ整わざるにも心着かで、再び語り続けたり。
「いっちゃ女の愚痴だがね。私はさっきいったように、世の中というものがあって、自分ばかりじゃないからと、断念《あきら》めて、旦那に事《つか》えてはいるけれど、一日に幾度となく、もうふツふツ嫌になることがあるわ。
芳さんも知っておいでだ。ついこないだのことだっけ、晩方旦那の友達が来たので、私もその日は朝ッから、塩梅《あんばい》が悪くッて、奥の室《ま》に寝ていた処へ、推懸《おしか》けたもんだから、外に別に部屋はなし、ここへ出て坐っていたの。
お客がまた私の大嫌《だいきらい》な人で、旦那とは合口《あいくち》だもんだから、愉快《おもしろ》そうに[#「愉快《おもしろ》そうに」は底本では「愉快《おもしろ》さうに」]話してたッけが、私は頭痛がしていた処へ、その声を聞くとなお塩梅が悪くなって、胸は痛む、横腹《よこッぱら》は筋張るね、おいおい薄暗くはなって来る。暑いというので燈火《あかり》はつけずさ。陰気になって、いろんなことを考え出して、つい堪《たま》らなくなったから、横になろうと思っても、直ぐ背後《うしろ》に居るんだもの、立膝《たてひざ》も出来ないから、台所へ行って板の間にでもと思ったが、あすこにゃ蚊《か》が酷《ひど》いし、仕方がないから戸外《おもて》へ出て、軒下にしゃがんで泣いてた処へ、ちょうどお前さんが来ておくれで、二階へ来いとおいいだから、そっと上ると、まあ、おとしよりが御深切に、胸を押して下すったので、私ゃもう難有《ありがた》くッて、嬉しくッて、心じゃ手を合せて拝んだわ。
おかげでやっと胸が開きそうになって、ほっと呼吸《いき》をついた処へ、
(貞はそこに参っておりましょうな。)と、壇階子《だんばしご》の下へ来て、わざわざ旦那が呼んだじゃあないかね。
私ゃあんまりくさくさしたから、返事もしないで黙っていると、おばあさんがお聞きつけなすッて、
(階下《した》へおいで、ね、ね、そうしないと悪い)ッて、みんなもうちゃんと推量して、やさしく言って下さるんだもの。
(ここに居とうございます!)と、おばあ様《さん》の膝に縋《すが》りついたの。
下ではなお呼ぶもんだから、おばあさんが私のかわりに返事をなすって、
(可いから、可いから。)と、低声《こごえ》でおっしゃってね、背《せなか》を撫でて下さるもんだから、仕方なしに下りて行くと、お客はもう帰っていてね、嫌な眼で睨《にら》まれたよ。
空いてる室《ま》がないもんだから、そういう時には困っちまう。アレ悪く取っちゃあ困るわね。
何も芳さんに二階を貸しておいて、こういっちゃあわるいけれど、はじめッからこの家《うち》は嫌いなの。
水は悪いし、流元《ながしもと》なんざ湿地で、いつでもじくじくして、心持が悪いっちゃあない。雪どけの時分《ころ》になると、庭が一杯水になるわ。それから春から夏へかけては李《すもも》の樹が、毛虫で一杯。
それに宅中《うちじゅう》陰気でね、明けておくと往来から奥の室《ま》まで見透《みとお》しだし、ここいら場末だもんだから、いや、あすこの宅はどうしたの、こうしたのと、近所中で眼を着けて、晩のお菜まで知ってるじゃあないかね。大嫌な猫がまた五六疋、野良猫が多いので、のそのそ入って、ずうずうしく上り込んで、追ってもにげるような優しいんじゃない。
隣の小猫はまた小猫で、それ井戸は隣と二軒で使うもんだから、あすこの隔《へだて》から入って来ちゃあ、畳でも、板の間でも、ニャアニャア鳴いて歩行《ある》くわ。
隣の猫のこッたから、あのまた女房《おかみ》が大抵じゃないのだからね、(家《うち》の猫を)なんて言われるが嫌さに、打《ぶ》つわけにはもとよりゆかず、二三度干物でも遣ったものなら、可いことにして、まつわって、からむも可いけれど、芳さん、ありゃ猫の疱瘡《ほうそう》とでもいうのかしら。からだじゅう一杯のできもの[#「できもの」に傍点]で、一々|膿《うみ》をもって、まるで、毛が抜けて、肉があらわれてね、汚なくって手もつけられないよ。それがさ、昨夜《ゆうべ》も蚊帳《かや》の中へ入込んで、寝ていた足をなめたのよ。何の因果だか、もうもう猫にまで取着《とッつ》かれる。」
と投ぐるがごとく言いすてつ。苦笑《にがわらい》して呟《つぶや》きたり。
「ほんとうに泣《なく》より笑《わらい》だねえ。」
十三
お貞の言《ことば》途絶えたる時、先刻《さっき》より一言《ひとこと》も、ものいわで渠《かれ》が物語を味いつつ、是非の分別にさまよえりしごとき芳之助の、何思いけん呵々《からから》と笑い出して、
「ははは、姉様《ねえさん》は陰弁慶だ。」
お貞は意外なる顔色《かおつき》にて、
「芳さん、何が陰弁慶だね。」
「だってそんなに決心をしていながら、一体僕の分らないというのはね、人ががらりと戸を明けると、眼に着くほどびっくりして、どきり! する様子が確《たしか》に見えるのは、どういうものだろう。髯《ひげ》の留守に僕と談話《はなし》でもしている処へ唐突《だしぬけ》に戸外《おもて》があけば、いま姉様がいった世間《よのなか》の何とかで、吃驚《びっくり》しないにも限らないが、こうしてみるに、なにもその時にゃ限らないようだ。いつでもそうだから可笑《おかし》いじゃないか。それに姉様のは口でいうと反対で、髯の前じゃおどおどして、何だか無暗《むやみ》に小さくなって、一言ものをいわれても、はッと呼吸《いき》のつまるように、おびえ切っている癖に。今僕に話すようじゃ、酸いも、甘いも、知っていて、旦那を三銭《さんもん》とも思ってやしない。僕が二厘の湯銭の剰銭《つり》で、(ちょいとこさ)を追返したよりは、なお酷《ひど》く安くしてるんだ。その癖、世間じゃ、(西村の奥様は感心だ。今時の人のようでない。まるで嫁にきたて[#「きたて」に傍点]のように、旦那様を大事にする。婦人《おんな》はああ行《ゆ》かなければ嘘だ。貞女の鑑《かがみ》だ。しかし西村には惜《おし》いものだ。)なんとそう言ってるぞ。そうすりゃ世間も恐しくはなかろうに、何だって、あんなにびくびくするのかなあ。だから姉様は陰弁慶だ。」
と罪もなくけなし[#「けなし」に傍点]たるを、お貞は聞きつつ微笑《ほほえ》みたりしが、ふと立ちて店に出《い》で行《ゆ》き、往来の左右を視《なが》め、旧《もと》の座に帰りて四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》し、また板敷に伸上りて、裏庭より勝手などを、巨細《こさい》に見て座に就きつ。
「それはね、芳さん、こうなのよ。」
という声もハヤふるえたり。
「芳さんだと思って話すのだから、そう思ッて聞いておくれ。
私はね、可いかい。そのつもりで聞いておくれ。私はね、いつごろからという確《たしか》なことは知らないけれど、いろんな事が重《かさな》り重りしてね、旦那が、旦那が、どうにかして。
死んでくれりゃいい。死んでくれりゃいい。死ねばいい。死ねばいい。
とそう思うようになったんだよ。ああ、罪の深い、呪詛《のろ》うのも同一《おんなじ》だ。親の敵《かたき》ででもあることか、人並より私を思ってくれるものを、(死んでくれりゃいい)と思うのは、どうした心得違いだろうと、自分で自分を叱ってみても、やっぱりどうしてもそう思うの。
その念《おもい》が段々|嵩《こう》じて、朝から晩まで、寝てからも同一《おんなじ》ことを考えてて、どうしてもその了簡《りょうけん》がなおらないで、後暗いことはないけれど、何《なん》に着け、彼《か》に着け、ちょっとの間もその念《おもい》が離れやしない。始終そればかりが気にかかって、何をしても手に着かないしね、じっと考えこんでいる時なんざ、なおのこと、何にも思わないでその事ばかり。ああ、人の妻の身で、何たる恐しい了簡だろうと、心の鬼に責められちゃあ、片時も気がやすまらないで、始終胸がどきどきする。
それがというと、私の胸にあることを、人に見付かりやしまいかと、そう思うから恐怖《こわい》んだよ。
わけても、旦那に顔を見
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