》なる漢《おのこ》なりき。
「ちょいとこ、ちょいとこ、ちょいとこさ。」
 と渠は、もと異様なる節を附し両手を掉《ふ》りて躍りながら、数年来金沢市内三百余町に飴を売りつつ往来して、十万の人一般に、よくその面を認《みし》られたるが、征清《せいしん》のことありしより、渠は活計《たつき》の趣向を変えつ。すなわち先のごとくにして軒ごとを見舞いあるき、怜悧《れいり》に米塩《べいえん》の料を稼ぐなりけり。
 渠は常にものいわず、極めて生真面目《きまじめ》にして、人のその笑えるをだに見しものもあらざれども、式《かた》のごとき白痴者なれば、侮慢《ぶまん》は常に嘲笑《ちょうしょう》となる、世に最も賤《いやし》まるる者は時としては滑稽《こっけい》の材となりて、金沢の人士《ひと》は一分時の笑《わらい》の代《しろ》にとて、渠に二三厘を払うなり。
 お貞はようやく胸を撫《な》でて、冷《ひやや》かに旧《もと》の座に直りつ。代価は見てのお戻りなる、この滑稽劇を見物しながら、いまだ木戸銭を払わざるにぞ、(ちょいとこさ)は身動きだもせで、そのままそこに突立《つった》ちおれり。
 ややありてお貞は心着きけむ、長火鉢の引出《ひきだし》を明けて、渠に与うべき小銭を探すに、少年は傍《かたわら》より、
「姉さん、湯銭のつりがあるよ、おい。」
 と板敷に投出せば、(ちょいとこさ)は手に取りて、高帽子を冠《かぶ》ると斉《ひと》しく、威儀を正して出行《いでゆ》きたり。

       九

 出行く(ちょいとこさ)を見送りて、二人は思わず眼を合しつ。
「なるほど肖《に》ているねえ。」
 とお貞は推出《おしだ》すがごとくに言う。少年はそれには関せず。
「まあ、それからどうしたの?」
 渠は聞くことに実の入《い》りけむ、語る人を促《うなが》せり。
「さあその新潟から帰った当座は、坊やも――名は環《たまき》といったよ――環も元気づいて、いそいそして、嬉しそうだし、私も日本晴《にっぽんばれ》がしたような心持で、病気も何にもあったもんじゃあないわ。野へ行《ゆ》く、山へ行くで、方々|外出《そとで》をしてね、大層気が浮いて可い心持。
 出来るもんならいつまでも旦那が居ないで、環と二人ッきり暮したかったわ。
 だがねえ、芳さん、浮世はままにならないものとは詮じ詰めたことを言ったんだね。二三度旦那から手紙を寄越《よこ》して、(奉公人ばかりじゃ、緊《しまり》が出来ない、病気が快《よ》くなったら直ぐ来てくれ。)と頼むようにいって来ても、何《なん》の、彼《か》のッて、行かないもんだから、お聞きよ、まあ、どうだろうね。行ってから三月も経《た》たない内に、辞職をして帰って来て、(なるほどお前なんざ、とても住めない、新潟は水が悪い)ッさ。まあ!
 するとまた環がね、どういうものか、はきはきしない、嫌にいじけッちまって、悪く人の顔色を見て、私の十四五の時見たように、隅の方へ引込《ひっこ》んじゃあ、うじうじするから、私もつい気が滅入《めい》って、癇癪《かんしゃく》が起るたんびに、罪もないものを……」
 と涙を浮《うか》め、お貞はがッくり俯向《うつむ》きたり。
「その癖、旦那は、環々ッて、まあ、どんなに可愛がったろう。頭へ手なんざ思いも寄らない、睨《にら》める真似をしたこともなかったのに、かえって私の方が癇癪を起しちゃ、(母様《おっかちゃん》)と傍《そば》へ来るのを、
(ええ、も、うるさいねえ、)といって突飛ばしてやると、旦那が、(咎《とが》もないものをなぜそんなことをする)てッて、私を叱るとね、(母様を叱っては嫌よ、御免なさい御免なさい)と庇《かば》ってくれるの。そうして、(あんな母様《おっかさん》は不可《いけない》のう、ここへ来い)と旦那が手でも引こうもんなら、それこそ大変、わッといって泣出したの。
(あ、あ、)と旦那が大息をして、ふいと戸外《おもて》へ出てしまうと、後で、そっと私の顔を見ちゃあ、さもさもどうも懐しそうに、莞爾《にっこり》と笑う。そのまた愛くるしさッちゃあない。私も思わず莞爾して、引ッたくるように膝へのせて、しっかり抱《だき》しめて頬をおッつけると、嬉しそうに笑ッちゃあ、(父様《おとっちゃん》が居ないと可い)と、それまたお株を言うじゃあないかえ。
 だもんだから、つい私もね、何だか旦那が嫌になったわ。でも或時《いつか》、
(お貞、吾《おれ》も環にゃ血を分けたもんだがなあ。)とさも情《なさけ》なそうに言ったのには、私も堪《たま》らなく気の毒だったよ。
 前世の敵《かたき》同士ででもあったものか、芳さん、環がじふてりやでなくなる時も、私がやる水は、かぶりつくようにして飲みながら、旦那が薬を飲ませようとすると、ついと横を向いて、頭《かぶり》を掉《ふ》って、私にしがみついて、懐へ顔をかくして、いやいやをしたもんだから、ついぞ荒い言《こと》をいったこともない旦那が、何と思ったか血相を変えて、
(不孝者!)といって、握拳《にぎりこぶし》で突然《いきなり》環をぶとうとしたから、私も屹《きっ》となって、片膝立てて、
(何をするんです!)と摺寄《すりよ》ったわ。その時の形相の凄《すさま》じさは、ま、どの位であったろうと、自分でも思い遣られるよ。言憎《いいにく》いことだけれど、真実《ほんとう》にもう旦那を喰殺してやりたかったわね。今でも旦那を環の敵《かたき》だと思うもの。あの父親さえ居なけりゃ、何だって環が死ぬものかね、死にゃあしないわ、私ばかりの児《こ》だったら。」
 お貞はしばらく黙したりき。ややあり思出したらんかのごとく、
「旦那はそのまま崩折《くずお》れて、男泣きに泣いたわね。
 私ゃもう泣くことも忘れたようだった。ええ、芳さん、環がなくなってから、また二三度も方々へいい役に着いたけれども、金沢なら可いが、みんな遠所《とおく》なので、私はどういうものか遠所へ行くとしきりに金沢が恋しくなッて、帰りたい帰りたい一心でね、済まないことだとは思ってみても、我慢がし切れないのを、無理に堪《こた》えると、持病が起って、わけもないことに泣きたくなったり、飛んだことに腹が立ったりして、まるで夢中になるもんだから、仕方なしに帰って来ると、旦那も後からまた帰る、何でも私をば一人で手放しておく訳にゃゆかないと見えて、始終一所に居たがるわ。
 だもんだからどこも良《い》い処には行かれないで、金沢じゃ、あんなつまらない学校へ、腰弁当というしがない役よ。」
 と一人冷かに笑うたり。

       十

「何もそんなに気を揉《も》まなくッても、よさそうなものを。旦那はね、まるで留守のことが気に懸《かか》るために出世が出来ないのだ、といっても可いわ。
 そんなに私を思ってくれるもんだから、夜遊《よあそび》はせず、ほんのこッたよ、夫婦になってから以来《このかた》、一晩も宅《うち》を明けたことなしさ。学校がひければ、ちゃんともう、道寄もしないで帰って来る。もっとも無口の人だから、口じゃ何ともいわないけれど、いつもむずかしい顔を見せたことはなし、地体がくすぶった何《なん》しろ、(ちょいとこさ)というのだもの。それだが、眼が小さいからちったああれでも愛嬌《あいきょう》があるよ。荒い口をきいたことなし、すりゃ私だって、嫌だ、嫌だとはいうものの、どこがといっちゃあ返事が出来ない。けれども嫌だから仕様がないわ。
 それだから私も、なに言うことに逆らわず、良人はやっぱり良人だから、嫌だっても良人だから、良人のように謹んで事《つか》えているもの。そう疑ぐるには及ばないじゃあないかね。芳さん、芳さんの姉様《ねえさん》がひどくされたようでも困るけれど、男はちったあ男らしく、たまには出歩行《であるき》でもしないとね、男に意気地《いくじ》がないようで、女房の方でも頼母《たのも》しくなくなるのよ。
 それを旦那と来た日にゃあ、ちょいとの間でも家《うち》に居て、私の番をしていたがるんだわ。それも私が行届かないせいだろうと、気を着けちゃあいるし、それにもう私は旦那の犠牲《いけにえ》だとあきらめてる。分らないながらも女の道なんてことも聞いてるから、浮気らしい真似もしないけれど、芳さん、あの人の弱点《よわみ》だね。それがために出世も出来ないなんといった日にゃ、私ゃいっそ可哀相だよ。あわれだよ。
 何の密夫《まおとこ》の七人ぐらい、疾《とっ》くに出来ないじゃあなかったが……」
 といいかけしがお貞はみずからその言過しを恥じたる色あり。
「これは話さ。」
 と口軽に言消して、
「何も見張っていたからって、しようのあるもんじゃあないわね。」
 お貞は面《おもて》晴々しく、しおれし姿きりりとなりて、その音調も気競《きお》いたり。
「しかしね、芳さん、世の中は何という無理なものだろう。ただ式三献《おさかずき》をしたばかりで、夫だの、妻だのッて、妙なものが出来上ってさ。女の身体《からだ》はまるで男のものになって、何をいわれてもはいはいッて、従わないと、イヤ、不貞腐《ふてくされ》だの、女の道を知らないのと、世間でいろんなことをいうよ。
 折角お祖父さんが御丹精で、人並に育ったものを、ただで我ものにしてしまって、誰も難有《ありがた》がりもしないじゃないか。
 それでいて婦人《おんな》はいつも下手《したで》に就いて、無理も御道理《ごもっとも》にして通さねばならないという、そんな勘定に合わないことッちゃあ、あるもんじゃない。どこかへ行こうといったって、良人がならないといえば、はい、起《た》てといえば、はい、寝ろといわれりゃそれも、はい、だわ。
 人間一|人《にん》を縦にしようが、横にしようが、自分の好《すき》なままにしておきながら、まだ不足で、たとえば芳さんと談話《はなし》をすることはならぬといわれりゃ、やっぱり快く落着いて談話も出来ないだろうじゃないかね。
 一体操を守れだの、良人に従えだのという、捉《おきて》かなんか知らないが、そういったようなことを極《き》めたのは、誰だと、まあ、お思いだえ。
 一遍婚礼をすりゃ疵者《きずもの》だの、離縁《さられ》るのは女の恥だのッて、人の身体《からだ》を自由にさせないで、死ぬよりつらい思いをしても、一生嫌な者の傍《そば》についてなくッちゃあならないというのは、どういう理窟だろう、わからないじゃないかね。
 まさか神様や、仏様のおつげ[#「おつげ」に傍点]があったという訳でもあるまいがね。もともと人間がそういうことを拵《こしら》えたのなら、誰だって同一《おんなじ》人間だもの、何|密夫《まおとこ》をしても可い、駈落《かけおち》をしても可いと、言出した処で、それが通って、世間がみんなそうなれば、かえって貞女だの、節婦だの、というものが、爪《つま》はじきをされようも知れないわ。
 旦那は、また、何の徳があって、私を自由にするんだろう。すっかり自分のものにしてしまって、私の身体《からだ》を縛ったろうね。食べさしておくせいだといえば、私ゃ一人で針仕事をしても、くらしかねることもないわ。ねえ、芳さん、芳さんてばさ。」
 少年は太《いた》くこの答に窮して、一言もなく聞きたりけり。

       十一

 お貞はなおも語勢強く、
「ほんとに虫のいい談話《はなし》じゃないかね、それとも私の方から、良人になッて下さいって、頼んで良人にしたものなら、そりゃどんなことでも我慢が出来るし、ちっとも不足のあるもんじゃあないが、私と旦那なんざ、え、芳さん、夫にした妻ではなくッて、妻にした良人だものを。何も私が小さくなッて、いうことを肯《き》いて縮んでいる義理もなし、操を立てるにも及ばないじゃあないか。
 芳さんとだってそうだわ。何もなかをよくしたからとッて、不思議なことはないじゃあないかね。こないだ騒ぎが持上って、芳さんがソレ駈出《かけだ》した、あの時でも、旦那がいろいろむずかしくいうからね、(はい、芳さんとは姉弟分《きょうだいぶん》になりました。どういう縁だか知らないけれど、私が銀杏返《いちょうがえし》に結っていますと、亡なった姉様《ねえさん》に肖《に》てるッ
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