れな。もし咳《しわぶき》をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返《いちょうがえし》の背向《うしろむき》に、あとあし下りに入《い》り来りて、諸君の枕辺《まくらべ》に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然《しょうぜん》としたまわんか。トタンに件《くだん》の幽霊は行燈《あんどん》の火を吹消《ふっけ》して、暗中を走る跫音《あしおと》、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭《はずれ》に至りて、そのままハタと留《や》むべきなり。
 夜《よ》はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮《おもんばか》りて、諸君は一夜を待明かさむ。
 明くるを待ちて主翁《あるじ》に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然《しゅうぜん》としてその実を語るべきなり。
 聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室《ひとま》に行《ゆ》け。密閉したる暗室内に俯向《うつむ》き伏したる銀杏返の、その背と、裳《もすそ》の動かずして、あたかもなきがらの
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