幽霊かと思った。」
「いやな! 芳さんだ。恐いことね。」
お貞は身震いして横を向きぬ。少年は微笑《ほほえ》みたり。
「何だ、臆病《おくびょう》な。昼じゃあないか。」
「でもそんなことをお言いだと、晩に手水《ちょうず》に行《ゆ》かれやしないや。」
「そんなに臆病な癖にして、昨夜《ゆうべ》も髯と二人|連《づれ》で、怪談を聞きに行ったじゃあないか。」
お貞はまじめに弁解《いいわけ》して、
「はい、ですから切前《きりまえ》に帰りました。切前は茶番だの、落語だの、そりゃどんなにかおもしろいよ。」
「それじゃもう髯の御機嫌は直ったんだね。」
三
「別に直ったというでもないけれど、まああんなものさ。あれでもね、おばあさんには大変気の毒がってね、(お年寄がようよう落着《おちつき》なされたものを、またお転宅《ひっこし》は大抵じゃアあるまいから、その内可い処があったら、御都合次第お引越しなさるが可し、また一月でも、二月でも、家《うち》においでになっても差支えはございませんから)ッて、それッきりになってるのよ。そのかわりね、私にゃ、(芳さんと談話《はなし》をすることは決してならない)ッて、固くいいつけたわ。やっぱり疑ぐっているらしいよ。」
少年は火箸《ひばし》を手にして、ぐいぐい灰に突立てながら、不平なる顔色《かおつき》にて、
「一体疑ぐるッて何だろう。僕のおばあさんにもね、姉様《ねえさん》、髯《ひげ》が、(お孫さんも出世前の身体《からだ》だから、云々《うんぬん》が着いてはなりますまい。私は、私で、内の貞に気を着けますから、あなたもそこの処おぬかりなく。)ッさ。内証で言ったそうだ。変じゃないか、え、姉様、何を疑ぐッているんだろう。何か僕と、姉様と、不道徳な関係があるとでもいうことなんかね、それだと失敬極まるじゃあないか、え、姉様。」
と詰《なじ》り問うに、お貞は、
「ああ。」
と生返事、胸に手を置き、差俯向《さしうつむ》く。
少年は安からぬ思いやしけむ。
「じゃあ何だね、こないだあの騒ぎのあった前に、二人で奥に談話《はなし》をしていた時、髯が戸外《おもて》から帰って来たので、姉様は、あわアくって駈出《かけだ》したが、そのせいなの? 一体気が小さいから不可《いけな》いよ。いつに限らずだ。人が、がらりと戸を開けると、何だか大変なことでも見付かったように、どぎまぎして、ものをいうにも呼吸《いき》をはずまして、可訝《おかし》いだろうじゃないか。先刻《さっき》僕の帰った時も、戸をあけると、吃驚《びっくり》して、何だかおどおどしておいでだったぜ。こないだの時だってもそうだ。髯に向って、(いらっしゃいまし)自分の亭主を迎えるとって、(いらっしゃいまし)なんて、言う奴があるものか。何だってそう気が小さくッて、物驚きをするんだなあ。それだから疑ぐられるんだ。不可《いけない》ねえ。」
お貞は淋しげなる微笑《えみ》を含み、
「そういってながら芳さんもあの時はやっぱりそそッかしく、二階へ駈《か》け上ったじゃあないかね。」
少年は別に考うる体《てい》もなく、
「そりゃ何だ、僕は何も恐《こわ》いことはないけれど、あの髯が嫌だからだ。何だか虫が好かなくッて、見ると癪《しゃく》に障るっちゃあない、僕あもう大嫌《だいきらい》だ。」
と臆面《おくめん》もなく言うて退《の》けつ。渠《かれ》は少年の血気にまかせて、後前《あとさき》見ずにいいたるが、さすがにその妻の前なるに心着きけむ、お貞の色をうかがいたり。
お貞は気に懸けたる状《さま》もなく、かえって同意を表するごとく、勢《いきおい》なげに歎息して、
「誰が見てもちがいはないねえ。私だってやっぱり嫌だわ。だがね、芳ちゃんは、なぜ好かないの。」
少年はお貞の言《ことば》の吾が意を得たるに元気づきて、声の調子を高めたり。
「他《ほか》にね、こうといって、まだ此家《ここ》へ来て、そんなに間もないこったから、どこにどうという取留めたこともないけれど、ただね、髯の様子がね、亡なった姉様の亭主に肖《に》ているからね、そのせいだろうと思うんだ。」
「そうして、不可《いけな》いお方だったの。」
少年はそぞろに往時を追懐すらむ、慨然《がいぜん》としたりけるが、
「不可いどころの騒《さわぎ》じゃない、姉様を殺した奴だもの。」
お貞は太《いた》く感ぜし状《さま》にて、
「まあ。」
とそのうるみたる眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りぬ。
「酷《ひど》い人ね、何だッてまた姉様を殺したんだろうね。芳さんのお姉様《あねえさん》なら、どんなにか優しい、佳《い》い人だったろうにさ。」
「そりゃ、真実《ほんとう》に僕を可愛がってくれたッちゃあないよ。今着ている衣服《きもの》なんか、台なしになってるけれど、
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