と下りて来て、長火鉢の前に突立《つった》ち、
「ああ、喉《のど》が渇く。」
 と呟《つぶや》きながら、湯呑に冷《さま》したりし茶を見るより、無遠慮に手に取りて、
「頂戴。」
 とばかりぐっと飲みぬ。
「あら! 酷《ひど》いのね、この人は。折角冷しておいたものを。」
 わざと怨《えん》ずれば少年は微笑《ほほえ》みて、
「余ってるよ、奥様はけち[#「けち」に傍点]だねえ。」
 と湯呑を返せり。お貞は手に取りて中を覗《のぞ》き、
「何だ、けも残しゃアしない。」
 と底の方に残りたるを、薬のように仰ぎ飲みつ。
「まあ、芳《よッ》さんお坐ンな、そうしてなぜ人を、奥様々々ッて呼ぶの、嫌なこッた。」
「だって、円髷に結ってるもの、銀杏返《いちょうがえし》の時は姉様《ねえさん》だけれど、円髷の時ゃ奥様だ。」

       二

 お貞はハッとせし風情にて、少年の顔を瞻《みまも》りしが、腫《はれ》ぼったき眼に思いを籠《こ》め、
「堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不可《いけない》ッて言うから仕様がないのよ。」
「だからやっぱり奥様《おくさん》じゃあないか。」
 と少年は平気なり。お貞はしおれて怨《うら》めしげに、
「だって、他《ほか》の者《もん》なら可《い》いけれど、芳さんにばかりは奥様ッて謂われると、何だか他人がましいので、頼母《たのも》しくなくなるわ。せめて「お貞さん」とでも謂っておくれだと嬉しいけれど。」
 とためいきして、力なげなるものいい[#「ものいい」に傍点]なり。少年は無雑作に、
「じゃあ、お貞さんか。」
 と言懸けて、
「何だか友達のように聞えるねえ。」
「だからやっぱり、姉《ねえ》さんが可いじゃあないかえ。」
「でも円髷に結ってるもの、銀杏返だと亡《なく》なった姉様《ねえさん》にそっくりだから、姉様だと思うけれど、円髷じゃあ僕は嫌だ。」
 と少年は素気《そっけ》なし。
「じゃあまるであかの[#「あかの」に傍点]他人なの?」
「なにそうでもないけれど。……」
 少年は言淀《いいよど》みぬ。お貞は襟を掻合《かきあわ》せ、浴衣の上前を引張《ひっぱ》りながら、
「それだから昨日《きのう》も髪を結わない前に、あんなに芳さんにあやまったものを。邪慳《じゃけん》じゃあないかね。可《いい》よ、旦那が何といっても、叱られても大事ないよ。私ゃすぐ引毀《ひっこわ》して、結直して見せようわね。」
 お貞は顔の色|尋常《ただ》ならざりき。少年は少し弱りて、
「それでなくッてさえ、先達《こないだ》のような騒《さわぎ》がはじまるものを、そんなことをしようもんなら、それこそだ。僕アまた駈出《かけだ》して行《ゆ》かにゃあならない。」
「ほんとうに、あの時は。ま、どうしようと思ったわ。
 芳さんは駈出してしまって二晩もお帰りでないし、おばあさんはまた大変に御心配遊ばしてどうしたら可《よ》かろうとおっしゃるし、旦那は旦那でものも言わないで、黙って考え込んでばかりいるしね、私はもう、面目ないやら、恥かしいやら、申訳がないやらで、ぼうッとしてしまったよ。後で聞くと何だっさ、真蒼《まっさお》になって寝ていたとさ。
 芳|様《さん》の跫音《あしおと》が聞えたので、はッと気が着いて駈出したが、それまでどうしていたんだか、まるで夢のようで[#「夢のようで」は底本では「夢のやうで」]、分らなかったよ。」
 少年は頻《しき》りに頷《うなず》き、
「僕はまた髯《ひげ》がさ、(水上《みなかみ》さん)て呼ぶから、何だと思って二階から覗《のぞ》くと、姉様《ねえさん》は突伏《つっぷ》して泣いてるし、髯は壇階子《だんばしご》の下口《おりぐち》に突立《つった》ってて、憤然《むっ》とした顔色《かおつき》で、(直ぐと明けてもらいたい。)と失敬ことを謂うじゃあないか。だから僕は不愉快で堪《たま》らないから、それからそのまんまで、家《うち》を出て、どこか可い家があったらと思ったけれど、探す時は無いもんだ。それから友達の処《ところ》へ泊って、牛《ぎゅう》を奢《おご》ってね、トランプをして遊んでいたんだ。僕あ一番強いんだぜ。滅茶々々に負かして悪体を吐《つ》いてやると、大変に怒ってね、とうとう喧嘩《けんか》をしちまったもんだから、翌晩《あくるばん》はそこに泊ることも出来ないので、仕方が無いから帰って来たんだ。」
 お貞は聞きつつ睨《にら》む真似して、
「憎らしいねえ。人の気も知らないで、お友達とトランプも無いもんだね。気が違やあしないかと、私ゃ自分でそう思った位だのにさ。」
「でも僕あ帰った時、(芳さん!)てって奥から出て来た、あの時の顔にゃ吃驚《びっくり》したよ。暮合《くれあい》ではあるし、亡《なく》なった姉さんの
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