かりじゃ、緊《しまり》が出来ない、病気が快《よ》くなったら直ぐ来てくれ。)と頼むようにいって来ても、何《なん》の、彼《か》のッて、行かないもんだから、お聞きよ、まあ、どうだろうね。行ってから三月も経《た》たない内に、辞職をして帰って来て、(なるほどお前なんざ、とても住めない、新潟は水が悪い)ッさ。まあ!
 するとまた環がね、どういうものか、はきはきしない、嫌にいじけッちまって、悪く人の顔色を見て、私の十四五の時見たように、隅の方へ引込《ひっこ》んじゃあ、うじうじするから、私もつい気が滅入《めい》って、癇癪《かんしゃく》が起るたんびに、罪もないものを……」
 と涙を浮《うか》め、お貞はがッくり俯向《うつむ》きたり。
「その癖、旦那は、環々ッて、まあ、どんなに可愛がったろう。頭へ手なんざ思いも寄らない、睨《にら》める真似をしたこともなかったのに、かえって私の方が癇癪を起しちゃ、(母様《おっかちゃん》)と傍《そば》へ来るのを、
(ええ、も、うるさいねえ、)といって突飛ばしてやると、旦那が、(咎《とが》もないものをなぜそんなことをする)てッて、私を叱るとね、(母様を叱っては嫌よ、御免なさい御免なさい)と庇《かば》ってくれるの。そうして、(あんな母様《おっかさん》は不可《いけない》のう、ここへ来い)と旦那が手でも引こうもんなら、それこそ大変、わッといって泣出したの。
(あ、あ、)と旦那が大息をして、ふいと戸外《おもて》へ出てしまうと、後で、そっと私の顔を見ちゃあ、さもさもどうも懐しそうに、莞爾《にっこり》と笑う。そのまた愛くるしさッちゃあない。私も思わず莞爾して、引ッたくるように膝へのせて、しっかり抱《だき》しめて頬をおッつけると、嬉しそうに笑ッちゃあ、(父様《おとっちゃん》が居ないと可い)と、それまたお株を言うじゃあないかえ。
 だもんだから、つい私もね、何だか旦那が嫌になったわ。でも或時《いつか》、
(お貞、吾《おれ》も環にゃ血を分けたもんだがなあ。)とさも情《なさけ》なそうに言ったのには、私も堪《たま》らなく気の毒だったよ。
 前世の敵《かたき》同士ででもあったものか、芳さん、環がじふてりやでなくなる時も、私がやる水は、かぶりつくようにして飲みながら、旦那が薬を飲ませようとすると、ついと横を向いて、頭《かぶり》を掉《ふ》って、私にしがみついて、懐へ顔をかくして、いやいやをしたもんだから、ついぞ荒い言《こと》をいったこともない旦那が、何と思ったか血相を変えて、
(不孝者!)といって、握拳《にぎりこぶし》で突然《いきなり》環をぶとうとしたから、私も屹《きっ》となって、片膝立てて、
(何をするんです!)と摺寄《すりよ》ったわ。その時の形相の凄《すさま》じさは、ま、どの位であったろうと、自分でも思い遣られるよ。言憎《いいにく》いことだけれど、真実《ほんとう》にもう旦那を喰殺してやりたかったわね。今でも旦那を環の敵《かたき》だと思うもの。あの父親さえ居なけりゃ、何だって環が死ぬものかね、死にゃあしないわ、私ばかりの児《こ》だったら。」
 お貞はしばらく黙したりき。ややあり思出したらんかのごとく、
「旦那はそのまま崩折《くずお》れて、男泣きに泣いたわね。
 私ゃもう泣くことも忘れたようだった。ええ、芳さん、環がなくなってから、また二三度も方々へいい役に着いたけれども、金沢なら可いが、みんな遠所《とおく》なので、私はどういうものか遠所へ行くとしきりに金沢が恋しくなッて、帰りたい帰りたい一心でね、済まないことだとは思ってみても、我慢がし切れないのを、無理に堪《こた》えると、持病が起って、わけもないことに泣きたくなったり、飛んだことに腹が立ったりして、まるで夢中になるもんだから、仕方なしに帰って来ると、旦那も後からまた帰る、何でも私をば一人で手放しておく訳にゃゆかないと見えて、始終一所に居たがるわ。
 だもんだからどこも良《い》い処には行かれないで、金沢じゃ、あんなつまらない学校へ、腰弁当というしがない役よ。」
 と一人冷かに笑うたり。

       十

「何もそんなに気を揉《も》まなくッても、よさそうなものを。旦那はね、まるで留守のことが気に懸《かか》るために出世が出来ないのだ、といっても可いわ。
 そんなに私を思ってくれるもんだから、夜遊《よあそび》はせず、ほんのこッたよ、夫婦になってから以来《このかた》、一晩も宅《うち》を明けたことなしさ。学校がひければ、ちゃんともう、道寄もしないで帰って来る。もっとも無口の人だから、口じゃ何ともいわないけれど、いつもむずかしい顔を見せたことはなし、地体がくすぶった何《なん》しろ、(ちょいとこさ)というのだもの。それだが、眼が小さいからちったああれでも愛嬌《あいきょう》があるよ。荒い口をきいたことなし、す
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