っかちゃん》、父様が居ないと可いねえ)ッさ。五歳《いつつ》や六歳《むッつ》で死んで行く児《こ》は、ほんとうに賢いのね。女の児《こ》はまた格別情愛があるものだよ。だからもう世の中がつまらなくッて、つまらなくッて、仕様がなかったのを、児《こども》のせいで紛れていたがね、去年(じふてりや)で亡くなってからは、私ゃもう死んでしまいたくッて堪《たま》らなかったけれど、旦那が馬鹿におとなしくッて、かッと喧嘩することがないものだから、身投げに駈出《かけだ》す機《おり》がなくッて、ついぐずぐずで活《い》きてたが、芳ちゃん、お前に逢ってから、私ゃ死にたくなくなったよ。」
 と、じっとその手をしめたるトタンに靴音高く戸を開けたり。

       八

 お貞はいかに驚きしぞ、戸のあくともろともに器械のごとく刎《は》ね上りて、夢中に上り口に出迎《いでむか》えつ。蒼《あお》くなりて瞳を据えたる、沓脱《くつぬぎ》の処に立ちたるは、洋服|扮装《でたち》の紳士なり。頤《おとがい》細く、顔|円《まろ》く、大きさ過ぎたる鼻の下に、賤《いや》しげなる八字髭《はちじひげ》の上唇を蔽《おお》わんばかり、濃く茂れるを貯えたるが、面《かお》との配合を過《あやま》れり。眼《まなこ》はいと小さく、眦《まなじり》垂れて、あるかなきかを怪《あやし》むばかり、殊に眉毛の形乱れて、墨をなすりたるごとくなるに、額には幾条の深く刻める皺《しわ》あれば、実際よりは老けて見ゆべき、年紀《とし》は五十の前後ならむ、その顔に眼鏡を懸け、黒の高帽子を被《かぶ》りたるは、これぞ(ちょいとこさ)という動物にて、うわさせし人の影なりける。
 良夫《おっと》と誤り、良夫と見て、胸は早鐘を撞《つ》くごとき、お貞はその良人ならざるに腹立ちけむ、面《おもて》を赤め、瞳を据えて、屹《き》とその面を瞻《みまも》りたる、来客は帽を脱して、恭《うやうや》しく一礼し、左手《ゆんで》に提《ひさ》げたる革鞄《かばん》の中《うち》より、小《ちいさ》き旗を取出《とりいだ》して、臆面もなくお貞の前に差出しつ。
「日本大勝利、万歳。」
 と謂いたるのみ、顔の筋をも動かさで、(ちょいとこさ)は反身《そりみ》になり、澄し返りて控えたり。
 渠がかくのごとくなす時は、二厘三厘思い思いに、その掌《たなそこ》に投げ遣るべき金沢市中の通者《とおりもの》となりおれる僥倖《ぎょうこう》なる漢《おのこ》なりき。
「ちょいとこ、ちょいとこ、ちょいとこさ。」
 と渠は、もと異様なる節を附し両手を掉《ふ》りて躍りながら、数年来金沢市内三百余町に飴を売りつつ往来して、十万の人一般に、よくその面を認《みし》られたるが、征清《せいしん》のことありしより、渠は活計《たつき》の趣向を変えつ。すなわち先のごとくにして軒ごとを見舞いあるき、怜悧《れいり》に米塩《べいえん》の料を稼ぐなりけり。
 渠は常にものいわず、極めて生真面目《きまじめ》にして、人のその笑えるをだに見しものもあらざれども、式《かた》のごとき白痴者なれば、侮慢《ぶまん》は常に嘲笑《ちょうしょう》となる、世に最も賤《いやし》まるる者は時としては滑稽《こっけい》の材となりて、金沢の人士《ひと》は一分時の笑《わらい》の代《しろ》にとて、渠に二三厘を払うなり。
 お貞はようやく胸を撫《な》でて、冷《ひやや》かに旧《もと》の座に直りつ。代価は見てのお戻りなる、この滑稽劇を見物しながら、いまだ木戸銭を払わざるにぞ、(ちょいとこさ)は身動きだもせで、そのままそこに突立《つった》ちおれり。
 ややありてお貞は心着きけむ、長火鉢の引出《ひきだし》を明けて、渠に与うべき小銭を探すに、少年は傍《かたわら》より、
「姉さん、湯銭のつりがあるよ、おい。」
 と板敷に投出せば、(ちょいとこさ)は手に取りて、高帽子を冠《かぶ》ると斉《ひと》しく、威儀を正して出行《いでゆ》きたり。

       九

 出行く(ちょいとこさ)を見送りて、二人は思わず眼を合しつ。
「なるほど肖《に》ているねえ。」
 とお貞は推出《おしだ》すがごとくに言う。少年はそれには関せず。
「まあ、それからどうしたの?」
 渠は聞くことに実の入《い》りけむ、語る人を促《うなが》せり。
「さあその新潟から帰った当座は、坊やも――名は環《たまき》といったよ――環も元気づいて、いそいそして、嬉しそうだし、私も日本晴《にっぽんばれ》がしたような心持で、病気も何にもあったもんじゃあないわ。野へ行《ゆ》く、山へ行くで、方々|外出《そとで》をしてね、大層気が浮いて可い心持。
 出来るもんならいつまでも旦那が居ないで、環と二人ッきり暮したかったわ。
 だがねえ、芳さん、浮世はままにならないものとは詮じ詰めたことを言ったんだね。二三度旦那から手紙を寄越《よこ》して、(奉公人ば
前へ 次へ
全17ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング