ら、しまいにゃあ泣声で、(私には出来ません、先生々々。)と呼ぶと、顔も動《うごか》さなけりゃ、見向きもしないで、(遣ってみるです。)というッきりで、取附《とりつく》島も何にもないと。それでも遣ってみても出来そうもない奴は、立ったり、居たり、ボウルドの前へ出ようとして中戻《ちゅうもどり》をしたり、愚図《ぐず》々々|迷《まご》ついてる間に、柝《たく》が鳴って、時間が済むと、先生はそのまんまでフイと行ってしまうんだッて。そんな時あ問題を一つ見たばかりで、一時間まる遊び。」

       七

「だから、西岡は何でも一方に超然として、考えていることがあるんだろう。えらい! という者もあるよ。」
 お貞は「何の。」という顔色《かおつき》。
「考えてるッて、大方内のことばかり考えてて、何をしても手が附かないでいるんだろう。聞いて御覧、芳さんが来てからは、また考えようがいっそきびしいに相違《ちがい》ないから。何だって、またあの位、嫉妬《しっと》深い人もないもんだね。
 前にも談《はな》した通り、旦那はね、病気で帰省をしてから、それなり大学へは行《ゆ》かないで、ただぶらぶらしていたもんだから、沢山《たんと》ないお金子《かね》も坐食《いぐい》の体《てい》でなくなるし、とうとう先《せん》に居た家《うち》を売って、去々年《おととし》ここの家へ引越したの。
 それでもまあ方々から口があって、みんな相当で、悪くもなくって、中でも新潟県だった、師範学校のね芳さん、校長にされたのよ。校長は可《い》いけれど、私は何だか一所に居るのが嫌だから、金沢に残ることにして、旦那ばかり、任地《あっち》へ行くようにという相談をしたが不可《いけ》なくって、とうとう新潟くんだりまで、引張《ひっぱ》り出されたがね。どういうものか、嫌で、嫌で、片時も居たたまらなくッてよ。金沢へ帰りたい帰りたいで、例の持病で、気が滅入《めい》っちゃあ泣いてばかり。
 旦那が学校から帰って来ても、出迎《でむかえ》もせず俯向《うつむ》いちゃあ泣いてるもんだから、
(ああ、またか。)となさけなそうに言っちゃあ、しおれて書斎へ入って行ったの。別につらあて[#「つらあて」に傍点]というンじゃあ決してなかったんだけれど、ほんとうに帰りたかったんだもの。
 旦那もとうとう我《が》を折って(それじゃあ帰るが可い、)というお許しが出ると、直ぐに元気づいて、はきはきして、五日ばかり御膳も頂かれなかったものが、急に下婢《げじょ》を呼んで、(直ぐ腕車夫《くるまや》を見ておいで。)さ、それが夜の十時すぎだから恐しいじゃあないかえ。何だか狂人《きちがい》じみてるねえ。
 旦那を残し、坊やはその時分|五歳《いつつ》でね、それを連れて金沢《こっち》へ帰ると、さっぱりしてその居心の可《よ》かったっちゃあない。坊もまた大変に喜んだのさ。
 それがというと、坊やも乳児《ちのみ》の時から父親《おとっさん》にゃあちっとも馴染《なじ》まないで、少しものごころが着いて来ると、顔を見ちゃ泣出してね。草履を穿《は》いて、ちょこちょこ戸外《おもて》へ遊びに出るようになると、情《なさけ》ないじゃあないかえ。家《うち》へ入ろうとしちゃあ、いつでもさ。外戸《おもてど》の隙からそッと透見《すきみ》をして、小さな口で、(母様《かあちゃん》、父様《おとっちゃん》家に居るの?)と聞くんだよ。
(ああ。)と返事をすると、そのまま家へ入らないで、ものの欲《ほし》くなった時分でも、また遊びに行ってしまって、父様居ない、というと、いそいそ入って来ちゃあ、私が針仕事をしている肩へつかまって。」
 と声に力を籠《こ》めたりけるが、追愛の情の堪え難かりけむ、ぶるぶると身を震わし、見る見る面の色激して、突然長火鉢の上に蔽《おお》われかかり、真白き雪の腕《かいな》もて、少年の頸《うなじ》を掻抱《かいいだ》き、
「こんな風に。」
 とものぐるわしく、真面目《まじめ》になりたる少年を、惚々《ほれぼれ》と打《うち》まもり、
「私の顔を覗《のぞ》き込んじゃあ、(母様《おっかさん》)ッて、(母様)ッて呼んでよ。」
 お貞は太《いた》く激しおれり。
「そうしてね、(父様《おとっちゃん》が居ないと可《い》いねえ。)ッて、いつでも、そう言ったわ。」
 言懸けてうつむく時、弛《ゆる》き前髪の垂れけるにぞ、うるさげに掻上《かきあ》ぐるとて、ようやく少年にからみたる、その腕《かいな》を解《ほど》きけるが、なお渠《かれ》が手を握りつつ、
「そんな時ばかりじゃあないの。私が何かくさくさすると、可哀相に児《こども》にあたって、叱咤《ひッちか》ッて、押入へ入れておく。あとで旦那が留守になると、自分でそッと押入から出て来てね、そッと抜足かなんかで、私のそばへ寄って来ちゃあ、肩越に顔を覗《のぞ》いて、(母様《お
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