て、はきはきして、五日ばかり御膳も頂かれなかったものが、急に下婢《げじょ》を呼んで、(直ぐ腕車夫《くるまや》を見ておいで。)さ、それが夜の十時すぎだから恐しいじゃあないかえ。何だか狂人《きちがい》じみてるねえ。
旦那を残し、坊やはその時分|五歳《いつつ》でね、それを連れて金沢《こっち》へ帰ると、さっぱりしてその居心の可《よ》かったっちゃあない。坊もまた大変に喜んだのさ。
それがというと、坊やも乳児《ちのみ》の時から父親《おとっさん》にゃあちっとも馴染《なじ》まないで、少しものごころが着いて来ると、顔を見ちゃ泣出してね。草履を穿《は》いて、ちょこちょこ戸外《おもて》へ遊びに出るようになると、情《なさけ》ないじゃあないかえ。家《うち》へ入ろうとしちゃあ、いつでもさ。外戸《おもてど》の隙からそッと透見《すきみ》をして、小さな口で、(母様《かあちゃん》、父様《おとっちゃん》家に居るの?)と聞くんだよ。
(ああ。)と返事をすると、そのまま家へ入らないで、ものの欲《ほし》くなった時分でも、また遊びに行ってしまって、父様居ない、というと、いそいそ入って来ちゃあ、私が針仕事をしている肩へつかまって。」
と声に力を籠《こ》めたりけるが、追愛の情の堪え難かりけむ、ぶるぶると身を震わし、見る見る面の色激して、突然長火鉢の上に蔽《おお》われかかり、真白き雪の腕《かいな》もて、少年の頸《うなじ》を掻抱《かいいだ》き、
「こんな風に。」
とものぐるわしく、真面目《まじめ》になりたる少年を、惚々《ほれぼれ》と打《うち》まもり、
「私の顔を覗《のぞ》き込んじゃあ、(母様《おっかさん》)ッて、(母様)ッて呼んでよ。」
お貞は太《いた》く激しおれり。
「そうしてね、(父様《おとっちゃん》が居ないと可《い》いねえ。)ッて、いつでも、そう言ったわ。」
言懸けてうつむく時、弛《ゆる》き前髪の垂れけるにぞ、うるさげに掻上《かきあ》ぐるとて、ようやく少年にからみたる、その腕《かいな》を解《ほど》きけるが、なお渠《かれ》が手を握りつつ、
「そんな時ばかりじゃあないの。私が何かくさくさすると、可哀相に児《こども》にあたって、叱咤《ひッちか》ッて、押入へ入れておく。あとで旦那が留守になると、自分でそッと押入から出て来てね、そッと抜足かなんかで、私のそばへ寄って来ちゃあ、肩越に顔を覗《のぞ》いて、(母様《お
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