が、あまり苦かりしにや湯をさしたり。
 少年はただ黙して聞きぬ。
 お貞は口をうるおして、
「児《こ》が出来る、もうそのしくしく泣いてばかりいる癖はなくなッて、小児《こども》にばかり気を取られて、他《ほか》に何にも考えることも、思うこともなくッて、ま、五歳《いつつ》六歳《むッつ》の時は知らず、そのしばらくの間ほど、苦労のなかった時はないよ。
 すると、その夏の初《はじめ》の頃、戸外《おもて》にがらがらと腕車《くるま》が留《とま》って、入って来た男があったの。沓脱《くつぬぎ》に突立《つった》ってて、案内もしないから、寝かし着けていた坊やを置いて、私が上り口に出て行って、
(誰方《どなた》、)といって、ふいと見ると驚いたが、よくよく見ると旦那なのよ。旦那は旦那だが、見違えるほど瘠《や》せていて、ま、それも可いが妙な恰好《かっこう》さ。
 大きな眼鏡のね、黒磨《くろずり》でもって、眉毛から眼へかけて、頬ッペたが半分隠れようという黒眼鏡を懸けて、希代さね、何のためだろう。それにあのそれ呼吸器とかいうものを口へ押着《おッつ》けてさ、おまけに鬚《ひげ》を生やしてるじゃあないか。それで高帽子《たかじゃっぽ》で、羽織がというと、縞《しま》の透綾《すきや》を黒に染返したのに、五三の何か縫着紋《ぬいつけもん》で、少し丈不足《たけたらず》というのを着て、お召が、阿波縮《あわちぢみ》で、浅葱《あさぎ》の唐縮緬《とうちりめん》の兵児帯《へこおび》を〆《し》めてたわ。
 どうだい、芳さん、私も思わず知らず莞爾《にっこり》したよ、これは帰って[#「帰って」は底本では「帰つて」]来たのが嬉しいのより、いっそその恰好が可笑《おかし》かったせいなのよ。
 病気で帰ったというこッたから、私も心配をして、看病をしたがね、胃病だというので、ちょいとは快《よ》くならない。一月も二月も、そうさ[#「そうさ」は底本では「さうさ」]、かれこれ三月ばかりもぶらぶらして、段々瘠せるもんだから、坊やは居るし、私もつい心細くなッて、そっと夜出掛けちゃあお百度を踏んだのよ。するとね、その事が分ったかして、
(お貞、そんなに吾《おれ》を治したいか)ッて、私の顔を瞻《みつ》めるからね。何の気なしで、(はい、あなたがよくなって下さいませねば、どうしましょう、私どもは路頭に立たなければなりません。)と真実《ほんとう》の処をいったのよ
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